プロ・オーケストラの楽団員も愛読している大ブレイク中の“クラシック”コメディ『のだめカンタービレ』の作者・二ノ宮知子さんが、この春常任指揮者に就任したデプリーストに突撃インタヴュー。初めて『のだめ』を手にしたマエストロは「私もぜひ登場させてくれ!」と言ったとか。今回はデプリースト夫人も交えて楽しい歓談に。果たしてこの対談が今後『のだめ』の展開にどう影響するか、まだ読むのはこれからという方も、乞うご期待!
デプリースト:なぜ、音楽家を題材にした作品を描いたのですか。
二ノ宮:音楽大学に行っている友人がいて、面白い子だったのです。
デプリースト:アメリカには音楽家が題材の漫画はないと思いますよ。ロックはともかく。
二ノ宮:オーケストラは何十人もいるので楽器を描くのが大変です。でもすごく楽しくて、描きながら勉強しています。マエストロは指揮者になりたいと思ったのはいつですか。
デプリースト:とても遅くて26歳。最初は法律家になりたかったのです。でも法律家は音楽家ほど興味深い職業ではなかった。娘は法律家になりましたが。
二ノ宮:ジャズもやってらしたそうですが、クラシックに進もうと思ったのはなぜですか。
デプリースト:ジャズをやりながらもクラシックはやっていたのです。私の叔母は有名なオペラ歌手ですし。オペラをみたり聴いたりするのは好きでしたが、私自身は特別な照明も何もないところで、ただオーケストラの音が純粋に響いているところがより好きなのです。指揮の国際コンクールで優勝したことがプロになりたいと思ったきっかけでした。
二ノ宮:私は漫画で指揮者を描いていますが、総譜を上から下まで全部見ながら指揮しているのが信じられないんですよ。耳もよくなければ。私はまずそれがだめです(笑)。
デプリースト:作品の中で夢を叶えてください(笑)。
二ノ宮:私は楽譜が読めなかったんです。ロックはやっていましたが。
デプリースト:それはすばらしい。作品の中では楽譜を書いていますよね。
二ノ宮:作品を描くときには総譜を買うんです。読めないけど見ていると何かわかる。たぶん指揮者を描いた漫画は今までなかったんです。絵に描くとどうしても棒を持って振るだけの絵になってしまいますし。
デプリースト:指揮者はもっとそのことを認識しているべきですね(笑)。
二ノ宮:ちょうど今、作品では男の子の主人公の“千秋”が指揮の国際コンクールで優勝して、これから国際的な舞台で指揮者の勉強を始めるんです。大御所の指揮者の弟子になってアシスタント・コンダクターをしてついて回っているんですよ。デプリーストさんがバーンスタインのお弟子さんとして回っていらしたときのことも教えていただきたいんです。アシスタントさんがどういう役割で何に忙殺されるのか、資料では見つからないので。
デプリースト:バーンスタインのアシスタントというのは、ディミトリ・ミトロプーロス国際指揮者コンクールで優勝した時の賞のひとつでした。バーンスタインが私を選んだのです。実際は世界中を一緒について回ったのではなく、ニューヨーク・フィルというひと所にいました。ですからチャンスを待っているだけ。先生が病気になるのを待つようなもので(笑)。
二ノ宮:じゃあ、教わることはないんですか。
デプリースト:こちらは見ているだけです。レコーディングでプレイバックを聴く時に、マエストロがコメントするのを私が書き取って、オーケストラの人たちに指示を出すことはありました。彼の横に座っていて一緒に聴くわけですが、そこでいろいろと学ぶことはあります。彼が何が好きで何が嫌いかとか。ある時、テレビ番組で彼がショスタコーヴィチの「交響曲第9番」を指揮した時のこと、カメラの調子が悪く撮り直しになったのですが、彼はもう指揮を続けるのが嫌になり、私に指揮棒を渡しました。「ジミー、君がやりなさい」と。こうしたことは、そうあるものではありません。ただ、いつそうなってもいいように準備しておくことが大切、ということです。ニューヨーク・フィルをやめてから、自分のエージェントのところに徐々に電話がかかってきて、誰の代役を明日やってくれとか、1週間後にやってくれとか、急な依頼がいろいろありました。自分としてはいつも準備をしてきたので、問題ありませんでしたが。実は、バーンスタインのところを離れてから1年は仕事がなかった。誰も私に興味をもってくれなかったのです。しかしそれが時間を有効に使えた1年でした。レパートリーを広げて暗譜もたくさんできた年だったからです。オランダのコンセルトヘボウ管からベートーヴェン《第9》の演奏会の話がきた時、エージェントには「私はやったことがない」と言わず、「もちろん、できます」と答えました。実際、1週間で暗譜で指揮したのです。その後、やはりバーンスタインのアシスタントであった友人のエド・デ・ワールトが、ロッテルダムで指揮できるよう私を招いてくれました。そのデビューがとても成功して、その後ヨーロッパでたくさん指揮する機会ができ、ワシントンにも戻って指揮しました。チャンスが回ってきて自分の夢が達成できたのです。後はひとつひとつの演奏会の中で成長することを心がけてきました。