バーンスタイン|交響曲3番《カディッシュ》エリアフ・インバル
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公演情報

第802回 定期演奏会Bシリーズ

2016年3月24日(木)19:00開演(18:20開場) サントリーホール

[出演]
指揮/エリアフ・インバル
語り/ジュディス・ピサール、リア・ピサール *
ソプラノ/パヴラ・ヴィコパロヴァー *
合唱/二期会合唱団
児童合唱/東京少年少女合唱隊 *
[曲目] 曲目解説を見る
ブリテン:シンフォニア・ダ・レクイエム op.20
バーンスタイン:交響曲第3番《カディッシュ》 * (1963)
(日本語字幕付き)

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インバル スペシャルインタビュー [全4回]

 「カディッシュ」とは死者のための祈りです。亡き父のために、息子がカディッシュを捧げます。しかし、バーンスタインの≪カディッシュ≫は、政治、宗教、人種的背景ゆえの不正行為や、大虐殺の犠牲となったすべての無実の人々、子供たち、市民のための祈りです。私たちの不穏な世の中にはアウシュヴィッツ、広島、クメール・ルージュ、アルメニアやルワンダのジェノサイド、「イスラム国」(IS)…不幸にもそれらは限りなく続きます。そして、世界中が死者への追憶と敬意を表すカディッシュを語らなければなりません。ーー エリアフ・インバル

インタビュアー/石合 力 ISHIAI Tsutomu(朝日新聞国際報道部長)

バーンスタインに才能を見いだされ、個人的な親交があった指揮者エリアフ・インバルにとって、この曲を振ることは特別な意味を持つ。聖地エルサレムで宗教的な家庭に育ち「カディッシュ」の祈りをそらんじていたインバルはその後、この曲の改訂に自らかかわることになる。そしてユダヤ教の祈禱にちなむこの曲から、より普遍的な人類と神との関係、世界の抱える矛盾と平和へのメッセージを読み取る。いま、なぜこの曲を演奏するのか……。
中東での紛争地取材が長い国際ジャーナリスト、石合力氏が聞いた。

2015年12月21日 都響スペシャル「第九」リハーサルを終えて

  • 石合 力

  • エリアフ・インバル

Profile
石合 力

1964年生まれ。カイロ、ワシントン両特派員、政治部次長、国際報道部次長、GLOBE副編集長を経て2011年から13年まで中東アフリカ総局長として「アラブの春」を取材。政権崩壊したエジプト、リビアのほか、シリア内戦などを取材。13年から現職。紛争地取材のかたわら音楽関係の取材、執筆も多く、01年にダニエル・バレンボイムがイスラエルでワーグナーを演奏した際に会場でインタビュー取材。09年にはGLOBE「突破する力」で英国在住の作曲家藤倉大を取り上げた。イスラエルフィルのシーズン開幕(11年)を飾った大野和士(現・都響音楽監督)を現地で取材したこともある。最新刊に「戦場記者~『危険地取材』サバイバル秘話」(朝日新書)。

Leonard Bernstein

指揮者=Leonard Bernstein楽譜に書き残したこと

 交響曲「カディッシュ」を作曲したレナード・バーンスタイン(1918〜90)は指揮者、作曲家、ピアニストと多彩な顔を持つ。
米マサチューセッツ州でユダヤ系移民の2世として生まれたバーンスタインは、ナチス・ドイツのホロコースト(ユダヤ人大虐殺)を経て第2次大戦後の1948年に建国された「ユダヤ人国家」イスラエルとの深い結びつきを続けた。名門ニューヨーク・フィルハーモニックの音楽監督に就任したのは1958年。その年にイスラエル・フィルを振りに来た40歳の若き巨匠は、イスラエル軍所属のオーケストラでヴァイオリンを弾きながら指揮者を目指していた青年インバルの才能に目を留めることになる。(聞き手・構成 石合 力)

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~バーンスタインが私の人生に現れなければ、進む道がどうなっていたかわかりません~

 インバルバーンスタインは私の人生にとって極めて重要な存在でした。私は軍のオーケストラに所属していました。それが私の兵役だったのです。銃を撃つことはなく、軍オーケストラのコンサートマスターとしてヴァイオリンを弾いていたのです。

――当初はヴァイオリニストとして音楽のキャリアを積まれたのですね。

 インバルそうなんです。ある日、電話がかかってきて明日、バーンスタインのためにイスラエル・フィルを振ってほしいというのです。私は軍オケの副指揮者もしていて、イスラエル・フィルの人たちは、若くて才能のある音楽家がいるということを耳にしていたんですね。それで突然、私に電話をかけてバーンスタインのために指揮に来るようにと言ったわけです。

――それはいつのことですか。

 インバル1958年です。私はインフルエンザにかかっていて高熱だったんですが、振りに行きました。ベートーヴェンの「コリオラン序曲」を振ったのです。  彼らが私に何を期待していたのかは分かりません。当時、ほかにも比較的、名前の通ったイスラエル人の指揮者がいましたが、22歳の私ほど若い人はいなかった。そんなイスラエル人指揮者たちにまじって指揮したのです。

――いかがでしたか。
 インバルバーンスタインは「君に決めた。君は偉大な指揮者になるだろう」といって私を選んだのです。「海外で勉強するための奨学金の推薦状を書いてあげよう」と推薦してくれました。そのおかげで私は海外で勉強することができたのです。本当に幸運なことでした。もしバーンスタインが私の人生に現れなければ、進む道がどうなっていたかわかりません。私自身、もちろん指揮者になりたいと思っていました。けれど、彼がいなければ、海外に渡り、著名な指揮者たちに学ぶといった可能性はまずなかったでしょう。私の音楽キャリアを後押ししてくれたのです。彼は当時すでに非常に人気がありました。

 バーンスタインの推薦でイスラエルから欧州に渡ったインバルを待ち受けていたのはそうそうたる巨匠指揮者たちだった。「音楽に限らず、子どもの頃からいつも素晴らしい恩師に恵まれてきた」と語るインバルが最初に教わったのは、アバドやバレンボイム、ムーティらを育てたことでも知られるイタリア出身の作曲家、指揮者フランコ・フェラーラ(1911〜85)。録音嫌いで知られる孤高の巨匠セルジュ・チェリビダッケ(1912〜96)にはイタリア・シエナで学んだ。パリではパリ管弦楽団の創設メンバーでもあるルイ・フォレスティエ(1892〜1976)に3年間、その後は、ラヴェル最後の直弟子マニュエル・ロザンタール(1904〜2003)に薫陶を受けた。そして1963年、イタリアのカンテッリ指揮者コンクールで優勝する。コンクールは飛行機事故で早世したイタリアの指揮者グィード・カンテッリ(1920〜56)にちなむ。カンテッリがパリで乗った事故機の行き先はニューヨーク。振るはずだったニューヨーク・フィルの演奏会を代演したのはバーンスタインだった。
 その年、1963年はバーンスタインがユダヤ教の祈りの言葉を朗読のテキストに使った交響曲第3番「カディッシュ」を作曲した年でもあった。
 作曲者自身によるイスラエルでの「カディッシュ」世界初演を直前に控えた63年11月22日、世界を揺るがす事態が起きる。米テキサス州ダラスでケネディ米大統領が凶弾に倒れ、暗殺されたのだ。ともにボストン近郊の出身で、ハーバード大に学んだバーンスタインとケネディは個人的にも深い親交を結んでいた。インバルはその知らせを留学先のパリで知った。バーンスタインが追悼公演で演奏したのは、マーラーの交響曲2番「復活」。当時、演奏されることが今ほど多くはなかったこの曲を選んだ理由について、彼はこう述べている。
 「なぜレクイエムや定番の(ベートーヴェンの交響曲3番「英雄」の)葬送行進曲ではないのかと問う人がいる。我々がこの交響曲を演奏したのは、愛する人(ケネディ)の魂の復活だけでない。彼を悼む我々すべてにとっての希望の復活のためなのだ」
 優勝したインバルは67年、イスラエル・フィルに凱旋公演することになる。
祖国に戻ったインバルを待ち受けていたのは、イスラエル・フィルで「復活」のリハーサルをしていたバーンスタインだった。師弟はそこで再会した。

~「カディッシュ」のすべてのリハーサルに立ち会うことができたのです~

――バーンスタインとはその後も連絡を取り合っていたのですね。

 インバルそうです。指揮者コンクールに優勝したことで私は67年、イスラエル・フィルを振ることになりました。本拠地テルアビブのほか、エルサレムやハイファなど各地を回り、同じプログラムで定期演奏会を14回もするのです。そのとき、バーンスタインは「復活」を練習するために来ていました。私が夜の演奏会で指揮している間、バーンスタインは午前中にリハーサルをする。それで私は彼のリハーサルに立ち会うことになったのです。
 実は後にも彼との間で、演奏会とリハーサルの組み合わせがありました。興味深いことにそのときに彼がリハーサルで取り組んでいたのが改訂版「カディッシュ」だったのです。

――そんなことが本当にあるのですね。

 インバル「カディッシュ」は63年に書かれた後、77年に改訂され、彼はそれもイスラエルで指揮しています。そのとき、私もイスラエルにいて、私の演奏会と彼のリハーサルが同じ時期だったのです。それで、「カディッシュ」のすべてのリハーサルに立ち会うことができたのです。指揮台のそばで議論することもありました。
 彼はまさに音楽の天才でした。作曲家であり、優れたピアニストでもありました。言うまでもなくカラヤンとともにあの時代の最も偉大な指揮者であり、本を執筆し、大学で音楽の講義もした。あらゆることができる人間だったのです。大いなる影響を受けましたがそれは、私が彼をひとりの人間として敬愛していたからでしょう。
 たいした話ではないかもしれませんが、彼はいつも朝の4時、5時まで起きていて、朝リハーサルに来ると少々機嫌が悪い。イスラエル・フィルの奏者の多くは私の友人ですが、彼らにすれば、不機嫌なのは自分自身になのか、彼らになのか、あるいは音楽に対してなのか、なんだかわからない、といったことがありました。もちろん、音楽家としての彼の仕事には全く影響のないことなのですが(笑)。

(注)イスラエル・フィルのアーカイブ(演奏記録)によると、インバルがイスラエル・フィルを振ったのは67年の7月3~6日。バーンスタインはマーラーの交響曲第2番「復活」を同月8、9日に演奏している。
 インバルは77年3月末から4月にもイスラエル・フィルに登場。77年版の「カディッシュ」をバーンスタインがイスラエル・フィルで演奏したのは4月4、5、6日だった。いずれもリハーサルは午前中に行われており、夜のコンサートを振るインバルはバーンスタインのリハーサルに同席することができた。

(つづく)
→Vol.2  ホロコーストと「カディッシュ」の祈り

Leonard Bernstein

指揮者=Leonard Bernstein楽譜に書き残したこと

 バーンスタインに才能を見いだされたインバルは1963年9月、イタリアのカンテッリ指揮者コンクールで優勝した。
 その約2カ月後、バーンスタインが個人的にも親交を結んでいたケネディ大統領が暗殺された。そして交響曲3番「カディッシュ」が作曲者自身の指揮でイスラエル・フィルの演奏によってテルアビブで初演されたのは暗殺の衝撃から間もない、その年の12月10日のことだった。
 指揮者としての道を目指し、パリに留学したインバルは、そこでポーランド出身のホロコースト(ユダヤ人大虐殺)生存者サミュエル・ピサールと知り合いになる。ハーバード大、ソルボンヌ大で博士号を取り、その後、米国で作家、弁護士として活躍したピサールは、ケネディの経済、外交政策の補佐官を務めた経歴を持つ。
 インバルとピサール、ピサールとケネディ、そしてケネディとバーンスタイン。「カディッシュ」は4人の交友のなかで新たな光を放ち始める。

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~強制収容所にいたあなたこそカディッシュの朗読テキストを書くべきだ~

――この曲は暗殺されたケネディに捧げられたといわれていますね。

 インバルバーンスタインが「カディッシュ」を作曲したのはケネディ暗殺の前でした。暗殺の数日前に書き上げたのです。そして暗殺が起きて彼はこの曲をケネディへの追憶として捧げたのです。ですから、ケネディの暗殺によって作曲されたというわけではありません。
 バーンスタインが1981年にワシントンでこの曲を演奏した際、彼に幻影が見えたことがあります。ケネディ大統領と(弟の司法長官で)やはり暗殺されたロバート・ケネディ、そしてバーンスタインの亡くなった夫人(フェリシア・モンテアレグレ)の姿でした。彼女は米国初演の際の朗読者でした。3人の幻影を頭上に見て、彼は指揮をしながら涙を流したのです。


インバルとピサール(2012年プラハにて)

――ピサールは60年の大統領選に出馬したケネディ陣営のスタッフだったことがありますね。

 インバル冷戦のまっただ中だった当時、彼は、ロシア(当時はソビエト連邦)との経済関係を強めて利害が深まれば、戦争の危険は減ると考えていました。それが彼の理論でそれについての著作もあります。だから彼はケネディ(大統領)の補佐官になったのです。もちろん、ケネディには何人もの補佐官がいて彼はその1人ですが、当時(20代で)非常に若かった。

――ピサールとバーンスタインはどのように知り合ったのですか。

 インバルサミュエル・ピサールと結婚したジュディスがニューヨーク在住でバーンスタインとは仲のいい友人だった。それでピサールもバーンスタインと知り合った。バーンスタインは90年に亡くなる前、彼にこう言ったのです。「あなたはナチスのユダヤ人強制収容所にいて苦しんだ。あなたこそカディッシュの朗読テキストを書くべきだ」と。ピサールから聞いたのですが、彼は当初は尻込みしていた。でもバーンスタインの死後、1、2年経ってから考えた末、執筆にかかるようになったのです。すいぶん時間がかかりましたが完成した。ある日、彼は私にそのテキストで一緒に演奏できるかと尋ねたのです。
 私は「OK。テキストを見せてください」と応じた。最初にチェコ・フィルとプラハで演奏し、その後、フランクフルトでも演奏しました。

――2012年、チェコ・フィルの常任指揮者を退任する際の演奏会で取り上げたのですね。

 インバルはい。それからフランクフルトでの(hr交響楽団の)定期演奏会でも取り上げました。今回の都響とが3度目になるはずでしたが、残念ながらピサールは今年(15年)7月に亡くなりました。夫妻とはバーンスタインを通じてではなく、(自宅のある)パリでの知り合いでした。

~ある意味で彼は「カディッシュ」にとりつかれていたのだと思います~

――この曲は、朗読と音楽を分けずに、朗読しながら演奏されますね。聴いていて、不思議な感じがします。

 インバル私は新たなテキストで表現されたものを音楽の中に取り込みました。バーンスタイン版のテキストは「神との対話」でしたが、今回のテキストは第2次大戦に起きたこと、つまり戦争だけではない(ホロコーストを含む)迫害について語ったものです。ピサールは東京公演を前に広島(の核兵器)についてもテキストに加えようとしていました。もちろん、それを音楽に取り込みました。

――どのように「取り込んだ」のですか?

 インバルそれは指揮者としての秘密ですよ(笑)。私はその音楽をもっと悲しく、劇的にすることも、もっと悲劇的に、あるいはより幸福なものにすることもできます。テキストに基づいて私が音楽に影響を及ぼす。そうすることで、ピサールとの演奏では、テキストと音楽が一体のものになったのです。

――楽譜には、どう書かれているのですか。

 インバル楽譜にはテキスト全文が書かれていて、フレーズの最初のところで私が朗読者であるピサールにキュー(合図)を出すのです。彼は楽譜を読めなかったので私に頼るしかなく、とても緊張していました。合図が彼に対するものなのか、ヴァイオリンへのものなのか、はっきりしないこともあったのでしょう。演奏を終えたときには彼は憔悴しきっていました。

――彼の声がクレッシェンドのように大きくなるところがありますね。これは楽譜に書かれているのですか。

 インバルそれは彼自身によるものです。彼は耳が遠いうえ、非常に弱い声で話す人だったので、こんな話し方でどうやってカディッシュを朗読するのだろう、と思ったことがあります。ところが朗読するなかで彼自身の声が劇的に進化したのです。もちろん、リハーサルの中で、私からここはもう少し強くとか、もう少し静かにといった指示を出すことはありました。ただ、彼自身が書いたテキストですから、意味は当然わかっている。そして彼は、それをどう表現すべきか分かっていたのです。

――ピサールのテキストをだれが音楽と組み合わせたのですか。

 インバル最初はバーンスタイン財団の支援を受けて、彼自身が取り組みました。その後、私が彼とテキストについて様々な議論をするなかで、私たち2人で改訂していきました。彼は熱狂的なまでに毎日のようにテキストの改訂に取り組んだのです。こうすればよかった。いや、こうしようと。さらに言葉を盛り込みたいという彼に「テキストは音楽と合わせるのだから、もっとシンプルに、短いものにした方がいい」と助言したこともありました。ある意味で彼は「カディッシュ」にとりつかれていたのだと思います。

――そして「カディッシュ」は生まれかわり、「復活」(resurrect)したというわけですね。

 インバル音楽と合わせる以上、バーンスタイン自身が書いた朗読テキストと語数はさほど変わりません。ただ、ピサール版のテキストが次第に長くなるなかで私は音楽の一部を繰り返すようにしたのです。指揮者によっては朗読が終わるまでその音を引き延ばす、というやり方で演奏する人もいるかもしれません。私は演奏を反復することで、テキストと音楽をより一体化させようとしたのです。

(つづく)
→Vol.3 ユダヤ教の瞑想思想とブルックナー

Leonard Bernstein

指揮者=Leonard Bernstein楽譜に書き残したこと

 ユダヤ、キリスト、イスラムの3大宗教の聖地エルサレムで敬虔なユダヤ教徒の家庭に育ったインバルにとって、ユダヤ教の祈り「カディッシュ」とはどのようなものだったのだろうか。
 インタビューは恩師バーンスタインの宗教観、さらにはユダヤ教の瞑想思想とブルックナーの音楽との関係へと展開する。

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〜少年時代、親戚が亡くなると、私もカディッシュを暗唱していました〜

――バーンスタインと「カディッシュ」のテキストの解釈などについて議論したことはありますか。

 インバル実はあまりありません。朗読テキストに目を通し、彼が何を考えていたのか、そして初演時のテキストと77年の改訂版との違いについても読みました。ただ、バーンスタインが書いたテキストにある「1人の人間が神と議論する」といったたぐいの内容は誰にでも受け入れることができるものではありません。寛大な心を持った、しかもあまり宗教的ではない(世俗的な)人にとって、彼の神との対話は極めて魅力的なものでしょう。しかし神の手をつかみ、彼に現実を見せ、人類を再び愛するよう諭すといった内容は宗教的な人間にとって受け入れることは不可能で、その点から彼は批判されたのです。

――バーンスタインは、いわゆる正統派(オーソドックス)のユダヤ教徒ではなかったのですね。

 インバルこのテキストを読めば、そうではないと思います。ただ、彼はユダヤ教徒の伝統のなかで育ち、シナゴーグ(ユダヤ教礼拝所)や祈りの言葉などに精通していました。彼自身おそらく正統派ではなかったけれども、こうした点で非常に影響を受けていたのです。

――日本人の多くはユダヤ教やトーラー(モーセ五書などの律法)について多くを知りません。「カディッシュ」は一般のユダヤ教徒にとってなじみの深いものなのでしょうか。

 インバル宗教的な人、あるいは宗教やその伝統に接している人にとっては極めてなじみの深いものです。神をあがめ、褒めたたえる祈禱です。死や死者に対することが書かれているわけではありませんが、我々ユダヤ教徒は死者のための祈りだと受け止めています。私は非常に宗教的な家庭で育ちました。少年時代、週に2、3回はシナゴーグに通っていました。親戚が亡くなると、私自身もカディッシュを唱えていたほどです。当時は暗唱していました。いま暗記しているかはわかりませんが。

――聖地エルサレムで育ったのですね。

 インバルはい。先祖はアデン(現在のイエメン南部)やダマスカス(現在のシリアの首都)出身で、いわゆるアシュケナジ(欧州出身のユダヤ人)ではなく、中東系(オリエント)のユダヤ人です。親戚の中には第2次大戦に参加して命を落とした人もいますが、ホロコーストの犠牲者ではありません。おじたちはみなユダヤ教のラビ(聖職者)で、そのうちの1人はカバラー(ユダヤ教の神秘思想)の権威でした。これはユダヤ教徒にとって瞑想の思想なのです。当時、私もこうした瞑想思想に接していました。それなので私はブルックナーの音楽に親近感を覚えるのです。

〜ブルックナーは、交響曲のなかで「次に来る世界」を探し求めていたのだ〜

 インバルブルックナーの音楽は瞑想的で、マーラーの音楽とは対照的です。マーラーも瞑想的ですが、より劇的(ドラマティック)です。興味深いことに、いい音楽家なのにブルックナーを理解できないという人がいます。どう受け止めていいかわからないというのです。私の説明はこうです。もしあなたがこの音楽を劇的な展開として捉えようとしても理解できない。音楽の静的な側面に心を開き、瞑想のようなものとして受け止めなければならないのです。
 多くの作曲家は劇的な進展をダイナミック(動的)に描きます。主題があり、例えばベートーヴェンの「運命」なら「パパパ、パーン」から「パパパ、パン」となる。こうした展開が何百回も起きるのが通常の西洋音楽です。ブルックナーの音楽はあまり動的ではなく、むしろ東洋音楽に通じるものです。

――確かにブルックナーの交響曲には何かほかの交響曲とは違うものを感じます。

 インバルブルックナーは、交響曲のなかで「次に来る世界」を探し求めていたのだと思います。もちろん、宗教的な要素や「キリストの復活」といった要素もあるでしょう。彼は今日的な問題にはあまりとらわれていなかった。もっと霊的(スピリチュアル)なもの、解決策といったものを求めたのです。一方で、マーラーやベートーヴェンは今日的な課題と未来の解決策の両面を示そうとしたように思います。
 マーラーの交響曲は迫害やこの世の問題を示したうえで、こうした問題をどう乗り越えるかという解決策や「復活」に至るのです。それは第2番の「復活」だけでなく、第1番「巨人」にもみることができます。第3番、第4番では博愛の交響曲になっている。マーラーの音楽は最初から最後まで「聖書」のようなものです。我々を導いてくれる。
 ブラームスは自然への愛着を通じて、より解決策に近いものを作ろうとしました。シューマンもそうでしょう。ブラームスやシューマンには(個人として)悲劇的な側面があります。彼らの描く悲劇は人類全体のものではなく個人的な悲劇であり、愛情や宗教、霊的なものの中にその解決策を見いだそうとしたのです。一方で、ブルックナーの場合は、一個人としての人間よりも、もっとスケールの大きなものを描こうとしたのだと思います。

(つづく)
→Vol.4 現代の悲劇と「カディッシュ」の人類愛

Leonard Bernstein

指揮者=Leonard Bernstein楽譜に書き残したこと

 今年2月、インバルは80歳になった。3月の公演はマエストロにとって、日本でのバースデーコンサートになる。
その記念の公演に選んだのが「カディッシュ」だった。ホロコーストの体験をもとに新たな朗読テキストを書き、インバルとの共同作業で「改訂版」をつくったサミュエル・ピサールは生前「世界中の場所でできる限り多く演奏したい、それもインバルの指揮で」と望んでいた。24日の演奏会では、15年7月に急逝した彼の代わりにジュディス夫人と令嬢のリアさんが朗読する。平和を希求したピサールの思いとは逆に、世界はいま、シリア内戦と難民の流出に苦しみ、「イスラム国」(IS)によるテロが相次ぐ。現代の悲劇に「カディッシュ」はどのような意味合いを持つのか。そこに、解決のヒントは含まれているのだろうか……。

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〜人間どうしの間で調和を見いだしていく。それこそが音楽なのです〜

――日本にとって「3月」は特別な意味があります。2011年に起きた東日本大震災と津波。そして3月10日は東京大空襲の日でもあります。いわばドレスデン空爆の日本版ともいえるものです。

 インバルそれなら、「カディッシュ」はとてもふさわしい曲ですね。いずれにせよ、今日の世界では「カディッシュ」のテキストがまさに現実になるような多くの悲劇的なことが起きています。ある意味で、ベートーヴェンの「第九」交響曲にも通じるものでしょう。
 「第九」とは何か。世界に起きていることへの絶望です。その上で我々には、誇るべき希望と解決策がある、ということなのです。それはまさに今、私たちのまわりで起きていることではないでしょうか。ベートーヴェンの考えが今ほど現実味を帯びている時代はありません。だからこそ人類愛(ヒューマニティー)を想起し、敵になるのではなく兄弟になる方がいいと常に心がけることが重要なのです。

――(15年11月にパリで起きた)同時多発テロの際、パリに滞在されていたとうかがいました。

 インバル その通りです。自宅で友人と夕食をとっているときに起きたのです。想像もできないほどひどいことが起きた。でも、私たちに何ができるのでしょうか。私はこうした事件を起こす人々のことを理解できません。なぜ宗教を殺戮(さつりく)のために使うのか。宗教で何をしたいのか。わかりません。彼らは彼らと同じ宗教の人々も殺害したのです。この問題は何とか解決しなければなりません。

――「カディッシュ」の曲の中に、現状への解決策に向けたヒントはありますか。

 インバル人間どうしの間で調和(ハーモニー)を見いだしていくべきだということでしょう。それは(シラーの「歓喜の歌」で第九を作曲した)ベートーヴェンの曲にも見ることができます。それこそが音楽なのです。詩のテキストではなく、その音楽の中で「我々はみな同じ人類なのだ」と感じ取ることができるのです。
 我々はみなこの地球上に住まなければならない! だれもが兄弟のように!、と。

〜いま起きていることはある日、第3次世界大戦に発展しかねない〜

――狂信的な過激主義者は人間のことを忘れ、彼らが信じる神のみを考えているのではないでしょうか。

 インバルヒトラーの例を挙げるまでもなく、政治家の対応はいつも後手に回ります。彼らが対応するときには破滅的な戦争になってしまうのです。早めに対応しようとしても民衆の支持を得られない。人々にはそれぞれの生活があり、戦争を望んではいない。もし政治家がここに行って、これを破壊しなければならない、と言っても「どうしてなんだ」と反応するでしょう。いま起きていることはある日、第3次世界大戦に発展しかねない、と思います。政治家はもうそれ以上待てないところまで待ってから行動を起こす。だから、その行動は甚大で破滅的なものになるのです。
 私の友人で、著名な作家、歴史家のヨアヒム・フェストはヒトラーに関する有名な本(邦訳「ヒトラー、最期の12日間」)を書き、大ベストセラーになった。彼は、我々人間の本性には、何か悪いもの、残酷なものがあり、時折それが表出すると述べています。私は自分がいい人間だと思っていますが、ある種の条件下で何が起こるかは分かりません。もしかしたら悪人になるかもしれない。そのことを常に念頭に置かないといけない。人間のそういった要素に対して、あらがわなければならないと思います。

――イスラエルの人々はホロコーストの被害者であると同時にパレスチナの占領者でもあります。政治的なコメントを求めるつもりはありませんが、現状をどうご覧になりますか。

 インバル和平以外に解決策はないと思います。その実現には双方が相手の存在を認めることが必要です。パレスチナ人は、「我々はイスラエルの(国家としての)存続を承認する、だから我々も自分の国家を持つのだ」と言うべきです。でも彼らはそうは言わない。双方に狂信的な人々がいて互いのことを認めません。唯一の解決策は和平であり、そうでなければ戦争が何度も何度も繰り返されることになります。それは解決策になるとは思えません。双方の当事者に信頼関係がありません。イスラエル側には、パレスチナとの和平をさらに求めて政府のやり方に反対を表明する人が多くいる分、(パレスチナ側に対する)信頼が比較的多いと言えるのではないでしょうか。そうした信頼の表明について、相手側(パレスチナ)からは見えません。イスラエルにおいて、より多くの人が平和を求めていても、相手側が同じでなければ、十分とはいえない。平和を得るには信頼が必要です。第2次大戦後の独仏は、ある時点で双方が信頼しはじめた。今では重要な友好国です。このような可能性は(パレスチナとの間でも)あると思います。

――音楽、人類愛、神……。破局を防ぐ手立てとして、インバルさんご自身はどれが最も有効だとお考えですか。

 インバルこの点であまりに純真でありたいとは思いません。神は破局を防ぐことはできなかった。破局的な宗教戦争もありました。では音楽か? もし音楽で解決できるなら、すばらしいことです。シリアやイラクに行って、大音量のスピーカーで音楽をかければすべて解決となる。そうはならない。私は「人間の本性」こそが重要だと思います。我々は、自らの本性の中にある「悪魔的な要素」が表に出てこないような方策を見いだす必要がある。音楽を奏でるとき、こうした悪魔的な要素を持つことは不可能だと思います。ただ、ヒトラーやその側近たちも音楽愛好家でした。音楽は役に立たなかったのです。

――「カディッシュ」を日本で演奏する意味について、どのようにお考えですか。

 インバル(ユダヤ教の)「カディッシュ」は人間の神に対する信頼を象徴するものです。それに対して、音楽作品としての「カディッシュ」は、人類に被害をもたらしたあらゆる厄災、様々な戦争や今日におけるテロ行為、あるいは日本で起きたこと(震災と津波)などを繰り返さないために、人類が何を共有すべきかを探るものだといえるでしょう。この曲が我々に与えてくれる解決策は、ベートーヴェンの「第九」と似ています。
 解決策はそこにあるのです。我々は、人間の内面にある最悪の部分を出さないために日々努力するということなのです。破局をもたらした人々は、私やあなたのような人間なのです。我々と違いはない。ただ、彼らは本性の最悪の部分を表に出してしまった。そのことを我々は自覚して、そうしたことが起きないよう毎日努力しなければならないのです。そして人類愛の行く末に対して信頼を寄せる必要がある。過去におけるベートーヴェンの「第九」とその後の「カディッシュ」という二つの楽曲によって、私たちはその解決の可能性を見いだすことができるのではないでしょうか。

――マエストロ、ありがとうございました。

(完)

インタビューを終えて

石合 力 ISHIAI Tsutomu(朝日新聞国際報道部長)

 聖地エルサレムで過ごした少年時代、人生の師バーンスタインとの出会い、ピサールと共同作業で行ったカディッシュの「改訂」、そして紛争が続く中東、世界の危機と人類愛への洞察――エリアフ・インバルが語る自分の人生とこの曲への思いは、華麗なる登場人物と興味深いエピソードにあふれ、それぞれの場面がまるで映画の一シーンのようだ。
 1963年、ケネディ大統領暗殺の直前に完成した「カディッシュ」は、ホロコースト(ナチスのユダヤ人大虐殺)の生き残りだったピサールの新たなテキストによって生まれ変わる。ユダヤ教の祈り「カディッシュ」に想を得た作品は、バーンスタイン版の「神との対話」から、ピサール版へと変遷するなかで、当初のユダヤ教的な要素から、次第により普遍的な人類愛へとテーマを広げていったともいえるだろう。
 インバルは、バーンスタインの勧めでパリに留学し、指揮者としての活動拠点となったパリでピサール夫妻と知り合う。あるときはリハーサル中のバーンスタインの横で、あるときはピサールとの対話のなかでこの曲の変遷を見守った。
 90年に死去したバーンスタインが死の前年にまるで「遺言」のように依頼したピサール版テキスト。それが世に出るまでには十数年を要した。
 2001年の米同時多発テロ事件(9・11)が執筆の契機になったと言われるが、インバルは、ピサールがバーンスタインの死後1年半ごろから執筆を始めていたと明かす。「彼のカディッシュは、世界の悲劇的な出来事に影響を受けながら、継続的に進展していたのです」
 夫人のジュディスによると、夫ピサールが思い浮かんだフレーズを書き留めた分厚い構想メモがあり、「9・11」を機に新版の「カディッシュ」テキストとしてまとめられたという。
 新版は、ピサール本人がナレーターを務め、2003年、ジョン・アクセルロッド指揮のシカゴ交響楽団で初演された。
 ピサール本人は昨年(15年)1月、パリで起きた週刊新聞「シャルリー・エブド」襲撃事件の後にパリで倒れ、7月に帰らぬ人となった。東京公演では新たにテキストに「ヒロシマ」が盛り込まれた。広島を訪問したこともある本人の生前の意向をくんだものという。ナレーターを務めるのはピサールに寄り添ったジュディス、リアの母娘。ピサールの没後、ピサール版「カディッシュ」のナレーターとしてバーンスタイン財団が公認しているのは彼女たち2人のみである。
 インバルの話は、パリの自宅そばで15年11月に起きた同時多発テロ事件、そして中東の現状にも及んだ。
 ホロコーストでの苦難を経て、ユダヤ人は戦後まもない1948年、自らの祖国「イスラエル」を建国する。だが、それは平和ではなく新たな戦争をもたらした。土地を追われたパレスチナ人は破局(ナクバ)と呼ぶ。
 度重なる中東戦争で版図を広げたイスラエルは現在もヨルダン川西岸、ガザ地区、そしてシリアのゴラン高原を占領している。占領地パレスチナに続々と建設される「ユダヤ人入植地」は和平進展の最大の障害となっている。「ホロコーストの犠牲者」は、同時に「パレスチナの占領者」でもあるのだ。
 聖地エルサレムで育ったインバルは、「和平と土地の交換」を原則にパレスチナとイスラエルが二つの国家として共存する中東和平の推進を求める。和平に立ちはだかる「狂信的な人々」が双方にいると述べる一方で、パレスチナ側への不信感も隠さない。
 「イスラエル側には、パレスチナとの和平をさらに求めて政府のやり方に反対を表明する人が多くいる分、(パレスチナ側に対する)信頼が比較的多いと言えるのではないでしょうか。そうした信頼の表明について、相手側(パレスチナ)からは見えません」
 ガザ地区への空爆など、イスラエル軍の度重なる武力攻撃を受けるパレスチナ側から見れば、発言には反発や異論もあるだろう。
 あえて説明すれば、和平推進を求める人ですら、相手側に信頼を置けない、という意味なのだろう。話し合いのテーブルにつくことすら容易ではない。それこそが中東の現実なのだ。

 苦悩する世界を前に、音楽によって何ができるのか? バーンスタイン、ピサールの思いをともに知るインバル渾身の「カディッシュ」が日本の聴衆に突きつけるメッセージは、とてつもなく重く、そして深淵なものになるだろう。(文中敬称略)

メッセージ

  • ジュディス・ピサール、リア・ピサール(語り)
    Judith and Leah PISAR, Speakers

    サミュエル・ピサールが直に体験した彼自身の息をのむような語りに代わるものはありませんが、ますます複雑化する世界において、私たちは、カディッシュを生かし続け、その素晴らしいメッセージを将来の世代へも伝え続けなければならないと考えています。サミュエル・ピサール、そして我々の親友レナード・バーンスタインが誇りに思えるよう、この課題に取り組みたいと思っています。
  • ニール・ターク(イスラエル大使館 文化・科学技術担当/
    合唱ヘブライ語発音指導)
    Nir Turk
    Culture and Science Affairs Embassy of Israel, Tokyo/
    Pronunciation Guidance of Hebrew for Chorus

    バーンスタイン作曲交響曲第3番《カディッシュ》がこのように素晴らしい組み合わせで演奏されることを心よりお祝い申し上げます。またその機会に少しでも関わることができて大変光栄です。カディッシュとは神への信頼と心の平安を表現するユダヤ教の最も重要な祈祷のひとつです。サミュエル・ピサールによるテキスト、マエストロインバルの指揮、そして日本の幅広い年齢層による合唱、これらすべてによってその背後に秘められた思想が開示されることでしょう。必ずや心に残る一夜になると期待しております。
  • 村上大介(産経新聞 論説副委員長)
    MURAKAMI Daisuke

    マーラー、ブルックナー、ショスタコーヴィチ、バルトーク、シューマン… 数多くの名演が記憶に新しいインバルによって、極めて現代的な祈りの曲「カディッシュ」が東京で響く。ユダヤの伝統では神を讃える祈り。中世以降、死者への祈りともなった。ホロコーストだけではない。バーンスタインの音楽は、紛争やテロなど今も人類を襲う悲劇を神に問いかける。ブリテンのシンフォニア・ダ・レクイエムとともに、インバルと都響は、どのような「鎮魂の祈り」を紡ぎ出すのだろうか。
  • 村田敦子(株式会社ミモザフィルムズ 代表取締役)
    MURATA Atsuko

    本年度アカデミー賞外国語映画賞、カンヌ映画祭グランプリ、ゴールデングローブ賞外国語映画賞など数々の映画祭で受賞を果たしているハンガリー映画「サウルの息子」(全国公開中)は、強制収容所に送り込まれたユダヤ人が辿る過酷な運命を描いています。強制収容所でゾンダーコマンドとして同胞を死に追いやる任務に従事するサウルは、極限状態におかれてもなお、息子をユダヤ教式に正しく埋葬したいと思い収容所内を奔走します。彼が最後まで探し求めたもの…それが「カディッシュ」でした。公演会の前後に是非この映画をご覧いただけましたら幸いでございます。
    『サウルの息子』公式サイト www.finefilms.co.jp/saul

エッセイ

《カディッシュ》を再生したサミュエル・ピサール

バーンスタイン自身が作詩した語りのテキストがあるのにもかかわらず、ピサールが独自に《カディッシュ》の作詩を行ったのはなぜか。 2人の友情と、実現しなかったオペラの構想とは。 今回の《カディッシュ》上演の背景を、ピサールのプロフィールとショート・エッセイから紐解きます。

Profile
サミュエル・ピサール Samuel PISAR
法律家、外交官、作家
(1929.3.18ポーランド・ビャウィストク~2015.7.27アメリカ・ニューヨーク)

 10歳の時に第2次世界大戦が勃発。祖国ポーランドはナチス・ドイツとソ連の侵攻を受け、ユダヤ系であったピサールはマイダネクへ、さらにアウシュヴィッツ、ダッハウの各絶滅収容所へ送られ、多くの地獄を体験した。アメリカ軍によって解放されたが、彼は家族や友人の全てを失い、16歳でホロコースト(大虐殺)の最も若い生存者の1人となった。
 戦後、親戚の援助を得てメルボルン大学で法律の学士号を取得、ハーバード大学とソルボンヌ大学で博士号を得た。20代でジョン・F・ケネディ次期大統領の外国経済政策調査委員会の一員となり、東西関係の有力なアナリストとしてキャリアを開始。多くの有力企業の顧問や著名人の弁護士を務める一方、リチャード・ニクソン大統領のデタント(東西緊張緩和政策)やヴィリー・ブラント西独首相の東方外交(共産主義諸国との関係改善)の先駆者として認められ、1974年のノーベル平和賞にノミネートされた。
 ピサールをレナード・バーンスタイン(1918~90)に紹介したのは、彼の妻ジュディスである(ジュディスはバーンスタインの弟子・友人だった)。彼らの本格的なコラボレーションは1989年に始まった。ポーランドにおける第2次世界大戦勃発50周年のコンサートで、東西の名手たちの演奏の合間に行われる、戦争を思い起こすテキストの執筆と朗読を、バーンスタインがピサールに依頼したのである。かつて敵味方に分かれた国々の音楽家たちの共演は、ワルシャワ・グランド・オペラからBBC(英国放送協会)によって放映された。
 バーンスタインの交響曲第3番《カディッシュ》(1963年初演)について、作曲家自身による台本とは別のヴァージョンをピサールが書き始めたのは、バーンスタインが死去して10年ほどが経過し、2001年9月11日の悲劇(同時多発テロ)が起きた後であった。
 彼の台本による《カディッシュ》は、2003年のラヴィニア音楽祭で、ジョン・アクセルロッド指揮シカゴ交響楽団、ピサール自身の語りで初演され、その後も主要都市で公演。バーンスタインの傑作を20世紀における最も感動的な作品の一つとして復活させた、と高い評価を受け、『フィラデルフィア・インクワイアラー』紙は「バーンスタインが作曲しなかったホロコーストのオペラだ」と述べた。

神との格闘-ピサールとバーンスタインの《カディッシュ》
等松 春夫 TOHMATSU Haruo


ピサール(左)とバーンスタイン(右)

 ホロコーストの生存者は何らかの形で深いトラウマを背負っている。自らが生き残るために時には同胞の苦難を見て見ぬふりをし、あるいは同胞を見殺しにし、最悪の場合は同胞を殺害するナチスに心ならずも加担せざるを得ないことさえあった。絶滅収容所で危うくガス室に放り込まれるところを、近くに転がっていたバケツを拾って持ち、ガス室の死体の片付けにきた掃除夫のふりをして辛くも虐殺を免れたピサールもまた、このようなトラウマに苦しみ続けた。「神が全能で慈悲深い方ならば、なぜこの世は悪と悲惨に満ちているのか」。これがすべてのホロコースト生存者の思いであろう。
 一方、バーンスタインは《カディッシュ》に付けた自作のテキストに問題があることを自覚していた。1963年11月のイスラエルにおける《カディッシュ》の世界初演は好評であったが、翌年1月の米国初演ではテキストが批評家たちによって酷評された。彼は1977年に改訂版を作ったが、それも満足のいく出来ではなかった。「カディッシュ」というユダヤ教の死者のための祈祷に触発されたテキストを自ら書きながらも、自分は神の存在と悪の問題について所詮は傍観者に過ぎないとバーンスタインは感じていた。だがピサールは、神の存在にもかかわらずこの世が悲劇に満ちている、という矛盾と全身全霊で格闘してきた者であった。
 ピサールとの交流が深まる中で、1989年にバーンスタインはホロコーストを題材にしたオペラを構想したが、ピサールは反対した。絶滅収容所における自らの凄惨な体験をユーモアさえ交えて語ることができたピサールでも、ホロコーストをオペラ化することは行き過ぎに思えたのである。「絶滅収容所のガス室の前でレナータ・テバルディ(註:20世紀後半を代表する名ソプラノ歌手)が嘆きのアリアを歌う場面など考えられない」とピサールは語り、バーンスタインのホロコースト・オペラ作曲の企ては挫折した。
 翌1990年、ピサールの回想録『希望の血』を読んで感銘を受けたバーンスタインは、ホロコースト・オペラではなく《カディッシュ》のために新たなテキストを書くことをピサールに依頼する。だがピサールはそれをも辞退し、まもなくバーンスタインは同年秋に亡くなったため、ことは消え去ったかに見えた。
 しかし、2001年9月11日の同時多発テロの衝撃がピサールの考えを変えた。未曽有の危機にあって何かをせねばとの強い衝動に駆られた彼は、絶滅収容所における言語に絶する体験と、神の存在にもかかわらず世界が悪に満ちているという矛盾との葛藤を思い出し、ついにバーンスタインの《カディッシュ》のためにテキストを書く決意をしたのである。「《カディッシュ》は単に過去の悲劇を嘆くのではなく、未来への警告のためにある」とピサールは語る。憎悪と偏見とテロリズムで世界が漂流し始めた現在こそ、バーンスタインの《カディッシュ》は聴かれねばならない。

参考文献:サミュエル・ピサール/ 國弘正雄、川瀬勝訳『希望の血』(講談社 1981年)
スティーヴン・ブルークス「サミュエル・ピサールの《カディッシュ》-漂流する世界への警告」(『ワシントン・ポスト』2011年5月27日)