山田和樹、三善晃の反戦三部作を語る

Kazuki YAMADA

山田和樹
Kazuki YAMADA, Conductor

 2009年第51回ブザンソン国際指揮者コンクールで優勝。ほどなくBBC響を指揮してヨーロッパ・デビュー。ドレスデン国立歌劇場管、パリ管、フィルハーモニア管、ベルリン放送響、サンクトペテルブルグ・フィル、チェコ・フィル、エーテボリ響などへ定期的に客演しているほか、アメリカ、オセアニアのオーケストラも指揮するなど、その活動は世界各地に広がっている。オペラでは2017年にベルリン・コーミッシェ・オーパーで『魔笛』を指揮し高い評価を得た。
 現在、モンテカルロ・フィル芸術監督兼音楽監督、バーミンガム市響首席客演指揮者、日本フィル正指揮者、読響首席客演指揮者、東京混声合唱団音楽監督兼理事長、横浜シンフォニエッタ音楽監督。2010 ~ 17年にスイス・ロマンド管首席客演指揮者を務めた。
 東京藝術大学指揮科で小林研一郎、松尾葉子の両氏に師事。メディアへの出演も多く、音楽を広く深く愉しもうとする姿勢は多くの共感を集めている。ベルリン在住。

© Marco Borggreve

山田和樹、三善晃の反戦三部作を語る

取材・文/山崎浩太郎

  • ※5月8日の定期演奏会は中止となりました。このコンサートで【三善晃の「反戦三部作」】 を指揮することになっていた山田和樹のインタビューを公開いたします。

  • 三善晃先生との出会い

     私が神奈川県立希望ケ丘高等学校に入学したときに、校歌斉唱がありまして。どんな校歌かなんて、入るまで知らないじゃないですか。そこで流れてきた校歌に、頭を殴られたようなショックを受けました。こんな芸術的な校歌があるのかというショックで、その作曲者が誰かというと、三善晃先生だったんです。
     混声四部合唱の曲で、とにかく難しくて普通の高校生には歌えない。2分の2拍子で、アウフタクトで入るのがすごく難しくて、素晴らしい曲なのに高校生は歌えない(笑)。
     ピアノ伴奏もとても難しい。すごい作曲家がいると思って、それで、その日初めて三善晃という名前を知ったんです。
     いつかお会いできることがあるかなあと思っていたら、2007年に、東京混声合唱団で三善先生の《レクイエム》の2台ピアノ版、新垣隆さんが編曲したリダクション版の初演を指揮することになりました。
     当時三善先生は、お身体を壊されていたんですが、開演の10分前にご挨拶に来てくださいました。でも、何もお話しにならない。僕もあがってしまって、うまく言葉が何も出てこない。なんとかひねりだしたのが、「先生の世界に近づけますかどうか」という言葉でした。
     すると、聴こえるか聴こえないかくらいの小さな声で、「信じてますから」とおっしゃったんです。思いもよらない一言でした。応援してます、とか、気にしないで、とかじゃなくて、初対面の人に「信じてますから」と言えるって、すごいことですよね。
     そのときの三善先生の目が忘れられないんです。ものすごく優しい、お釈迦様みたいな、後光がさしてるような。本当に、心から信じてくれている。厳しい方だとうかがっていたのに、そうではなかった。
     《レクイエム》は本当に大変な曲なんですが、ある批評家が、山田和樹は火の玉になって指揮したと書いてくれました。曲のあと、三善先生は、舞台に上がるのは難しかったのですが、舞台の前まで歩いてきてくださって。僕が客席へおりてご挨拶して、また言葉が出なかったんですが、三善先生の頬に一筋の涙が伝わっていたのは、忘れることができません。
     そのあと、2回ほどお見かけしたんですが、お元気ですかという程度で、会話らしい会話はできないままでした。もう1回、できることならお会いしたかったです。

  • 三善作品は虹のようなもの

     とにかく、頭脳明晰な方です。先生の文章を読んでも、難しくてすぐギブアップしてしまう。テレビのインタビューの映像が残っていて、文章よりはわかりやすいんですが、やっぱり聞いてるうちにわかんなくなっちゃう(笑)。願わくばもっと勉強して、先生の本を読めるようになりたいです。
     音楽も緻密に書かれています。特に合唱界では、楽譜に「三善アクセント」とよばれる記号があって、「<>」や「<ー>」というものなんですが、自分の名前がついた記号があるなんて、日本人では三善先生だけでしょう。これが大事な音符につけてある。細かくつけてあって、そのとおりにやると、日本語がものすごくきれいに響くんです。日本語の美しさをそのまま響かせることでは、三善先生はピカイチです。
     三善先生の作品はとても難しい。拍子が小数点になってることが多いんです。4分の2.5拍子とか、8分の3.5拍子とか、最強なのは4分の2.75拍子(笑)。でもこれには意味があって、分子を整数にしようにすると分母が変ってしまう。分母を一緒にすることで、底辺に流れている拍節感は一緒だと示す。同じであることが大事なんです。こういったことが楽譜のスパイスになっている。
     難解なものが多い三善作品ですが、子どものための合唱曲などには、とてもかわいらしい曲もありますね。
     難しい作品の演奏には、ものすごい集中力が必要になりますが、同時にそれを演奏する快感が生まれるんです。そうして、お客さんは圧倒される。
     ところが、演奏直後から、自分ははたして本当に演奏したんだろうかと思う。演奏したという実感があまりない。あんなにがんばったはずなのに。
     こういう感覚が、三善先生と武満徹先生の違いです。いい悪いではなくて、武満さんの音は、演奏したあとも心と身体に残る。三善さんの音楽は、昇華されてしまう。揮発するというか。本当に演奏したのか、歌ったのか、実感がない。
     だから、三善作品は虹のようなものだと思います。あんなにきれいで、目の前にあるのに、つかめるものではない。それと同じように、記憶はあるのだけれど、実感としては、本当に演奏したのだろうかと思う。
     これは、欧米の名曲にもあまりない経験です。ひょっとしたら、メシアンなどがそうかもしれませんが、僕はまだあまり指揮していないので。

  • 反戦三部作について

    三善晃

     反戦をテーマとする三部作の最初が、1971年の《レクイエム》です。この衝撃的な作品から8年後、僕が生まれた年に《詩篇》が書かれ、さらに5年後に《響紋》がつくられる。けっこう間があいている。自分が指揮したことがあるのは《レクイエム》だけで、あとの2曲は今回が初めてになります。
     三善先生はとても華奢な方で、《レクイエム》は、この小さな身体のどこにこんなパワーがあるのかと思えるくらい、暴力的で、たぎるものが叫びとなっている。
     古代において、音楽は叫びから始まったのか、それとも歌から始まったのかというのは、僕の永遠の疑問なんです。武満さんの音楽は美しい歌から始まっていて、叫びは基本的にない。三善さんの場合は叫びから始まる。
     あとの2作品にくらべて、《レクイエム》のテキストは入り混ざっています。特攻隊員の遺書などが使われている。その衝撃のすごさは、広島の原爆資料館の昔の展示のようなものだったんじゃないかと思います。
     その展示を修学旅行の高校生が見て、ものが食べられないようなショックを受けたといいますよね。僕は《レクイエム》を2007年に指揮する前に、行かなきゃいけないと思って見にいったんですが、そのときには、話で聞いたような直接的な迫力はなくなっていた。
     戦争体験の生々しい展示が、時代とともに薄まっていく。これは、《レクイエム》からあとの2作への変化にも通じると思います。
     風化させてはいけないという思いと、時間の効能としての忘れられるよさもある。そうした葛藤が、三善先生の中にはずっとあった。
     年月の中で、時をへて変わるものもあれば、変わらないものもある。変わらないものを象徴するのが、子どもの声で歌われる童謡です。大人の歌、死者の声に満ちていた《レクイエム》に対し、《詩篇》と《響紋》では、それが重要な要素になる。
     童謡は戦争のずっと前からあり、そのあともある。いつの時代にも子どもがいて、未来がある。一人一人は成長していくが、子どもはいつの時代にも必ずいる。そして、未来を奪われた子ども、奪われていない子どもが、時間と空間を超えて、そこにいる。
     タイムスリップしていくような感覚が生まれます。
     音楽の素晴らしさって、時間と空間を超えられることだと僕は言ったりするんですが、そこには三善作品の影響があります。
     時間と空間を超えて、あの悲劇をくり返さないという思い。あの戦争で自分は生き残った。誰かは死んだ。ということは、自分が生き残ったために誰かが死んだともいえる。自分が殺したようなもの。
     そういう後ろめたさがなければ、《レクイエム》のあのパワーは生まれてこないでしょう。懺悔的な意味と、そしてそのなかで、自分の生きていく希望をどのように持つか。そこに音楽がリンクしていく。
     凄まじい体験を、音楽にすることで昇華しようとしている。そこに道はあるのかどうかという問いかけを、我々にしている。声ある声も、声なき声も。
     《レクイエム》の圧倒的音響に包まれて、人々は何かを感じざるを得ない。歌詞はまるで聞きとれません。聞きとれるようにする方法がないわけではありませんが、聞こえなくていいんです。聞きとることを想定していない。それを超えて、考える前に感じることが大事。
     今は平和な時代だから、音が合ってるかとか、聞きとれるかとか、そういうことに我々はとらわれやすい。でも、わからなくても伝わるもの、ガーンと来るもの。そこに音楽の意味があると思います。
     言葉にできないものを、無理やり言葉にしているのが言葉。そして、音楽は言葉にできないもの。その意味で、音楽と言葉は一緒なんです。言葉でわかるほうが簡単かも知れないけど、それを超えた、なんなんだこれは、という感覚。
     三善先生は、こうじゃなければいけないと、押しつけがましいことは言わなかったと思います。でも、絶対的に人に忘れてほしくないもの、感じてほしい思い、それがものすごく強くある。我々は日本人だ、という魂がそこにこもっている。音符がいっぱいつまっている《レクイエム》から《詩篇》をへて、《響紋》まで、音の数はだんだん淘汰されていきますが、そのメッセージのパワーはまったく変わっていません。

  • 鏡に映るもの

    三善晃

     《詩篇》は、歌詞が宗左近の詩集『縄文』からとられています。
     宗さんの詩も読むほどに難解で、直接的には意味がわからない。でもあの世界観はとても好きです。重いものなので簡単には読めませんが。
     その詩は、鏡のよう。生きている自分と死んでいる自分が、並行しているような。
     音楽も、鏡なんです。フォルテとピアノの対照などだけでなくて、たとえばドレミファソラシドの音階、長調を引っくり返すと短調になる。対極と思えるものが、ほんとは同じものであって、表と裏の関係になっている。パラレルワールド的な感覚もあります。
     宗左近は縄文時代という日本のルーツへ関心を向けて、その血がどこから来たのかを考えることで、なぜあんな戦争になったのか、平和とは何かを考えようとした。現代の鏡としての縄文。
     《詩篇》や《響紋》の童謡も、鏡。大人が自らを鏡に映すと子どもが映るかもしれない。僕は映画『2001年宇宙の旅』が大好きなんですが、あのラストでは、赤ちゃんや老人や大人の姿が瞬間的に切り換えられていきますね。《詩篇》や《響紋》の鏡に映る自分も、子どもだったり、大人だったり、老人だったり。
     鏡には生きている自分も、死んだ自分も映る。鏡の中の自分を殺せるかどうか。子どもほど、恐ろしいものはない。なぜなら純粋だから。純粋だからこその恐ろしさがある。
     《響紋》の童謡「かごめかごめ」は、美しくて不気味。子どもが歌い続ける。最後の「後ろの正面だあれ」。後ろの鏡に映るのは誰か。
     この意味深さも三善先生のねらいでしょう。

  • タイトルの由来

     《レクイエム》や《詩篇》は、キリスト教の宗教音楽の曲名。なぜそれをつけたか。
     作曲家が宗教曲をつくるときに、何らかのアンチテーゼがあったのではないかという考えはできないでしょうか。
     バッハはなぜロ短調ミサを書いたか。プロテスタントがカトリックの音楽を書く。そのとき、ロ短調という、もっとも忌み嫌われている、使ってはいけない調を使った。受難の調と言われます。
     僕なりの解釈だと、宗教に何か問いかけを持った人がつくった宗教曲が残っていく。
     モーツァルトは、教会が女性を差別することを批判した。ベートーヴェンは、神がいるはずなのに、なぜ自分の耳は聞こえないかと思ったろう。メンデルスゾーンはユダヤ人なのにキリスト教に改宗している。あとの時代はもっと顕著ですね。ワーグナーは自分が教祖だくらいの勢いで、キリスト教はインドから来たのだと言っている。リヒャルト・シュトラウスにいたっては、アルプス交響曲に最初は「アンチ・キリスト」とつけようとした。
     日本人である三善先生の曲も、同じような面があるのではないでしょうか。
     海外の文化に触れることで、初めて日本人になれる部分がある。西洋のイディオムのなかでこそ、日本人てなんだと考える。
     僕も、ずっと日本にいたら、この反戦三部作を指揮しようと思ったかどうか、わからない。10年前、海外に出なきゃダメだと思って、コンクールとかで海外に出た。そのときに、日本人の作品をやらなきゃダメだと思いました。
     その前からぽつぽつとやってはいたけど、日本に帰って来るときには、なるべく可能なかぎり、日本人作品をやろうと。自分も、海外に出てそう思うようになった。
     三善先生も1950年代にパリに留学して、大きなカルチャーショックを受けたのでしょう。日本人なのにクラシック音楽を習っているということの意味を、そこで考える。西洋の科学を借りて西洋と戦争して負けて、多くの人が死んだということの意味も。
     三善先生は、日本から発信することにこだわられた。自分も、その遺志を少しは継がなければいけないと思っています。

  • 聴衆のみなさんへ

    © Yoshinori Tsuru

     反戦三部作に三善先生が込めたものは、僕が思う以上に深いものでしょう。言葉が及び得ないものが、曲に込められている。
     この3曲を指揮すると、自分の生命が縮む気がします。それくらいの覚悟が必要です。だけど、やらなきゃいけない音楽です。
     都響さんから三部作というお話をいただいて、一も二もなくやらさせていただきますとすぐにお答えしました。
     オリンピックの年、終戦75年、この年だからこそしなきゃいけないと思います。
     5月8日の演奏会では、タイムスリップ感を味わっていただきたい。音に呑まれて、目を閉じて、何が浮かんでくるか。
     命がけ、なんて言葉に出してしまうと安っぽくなるかも知れませんが、本当にその覚悟です。
     そこに生きている生命を見てほしい。オーケストラというのは社会の縮図でもありますが、楽員も合唱も指揮者も、そこに生きていて、演奏会にドラマを紡いでいく。その生きざまを、見ていただきたいです。

公演情報

<公演中止>第903回 定期演奏会Aシリーズ

2020年5月8日(金) 19:00開演(13:20開場)
東京文化会館

指揮/山田和樹
  合唱/東京混声合唱団*、武蔵野音楽大学合唱団*
児童合唱/東京少年少女合唱隊**

三善 晃:レクイエム(1971)*
三善 晃:詩篇(1979)*
三善 晃:響紋(1984)**