東京都交響楽団

史上空前の革命家
ベートーヴェンが
遺したもの

第2回

ベートーヴェンと「交響曲」
~なぜ、ハイドンが「交響曲の父」と言われるのか?

「シンフォニア」と「交響曲」

 現在では見かけることが少なくなったが、かつて日本では「シンフォニア」と「交響曲」という2つの単語は、別のものを指す言葉として使い分けられていた。簡単にいえば、我々が「交響曲」という言葉でイメージする以前の、前史にあたる楽曲を「シンフォニア」と呼んで区別していたのである。もともと「交響曲」という日本語は、森鴎外(1862~1922)がドイツ語の「Sinfonie」「Symphonie」――英語の「symphony(シンフォニー)」――を、語源に立ち戻って訳した言葉とされている。“sym” を「交」、“phonie” を「響」に置き換え、音楽であることを伝えるために「曲」を付けたわけだ。
 しかしながらイタリア語で考えてみると、ドイツ語の「Sinfonie」と英語の「symphony」にあたる単語として、時代に関係なく一貫して「sinfonia(シンフォニア)」が使われてきたのである。言うまでもなく、ベートーヴェンの「交響曲」もイタリアでは「sinfonia」であり、バロック時代のアントニオ・ヴィヴァルディ(1678~1741)の「シンフォニア」も、現代音楽のルチアーノ・ベリオ(1925~2003)の「シンフォニア」も、イタリア語では等しく「sinfonia」である。にもかかわらず、何故か日本では「交響曲」と「シンフォニア」をまるで別のものであるかのように使い分けていた。その理由を探るためには、時系列順に言葉の使われ方を整理する必要があるだろう。

交響曲の誕生

 現在、「交響曲」と呼ばれている音楽の起源となったのは、1600年前後にイタリアで成立したオペラである。初期のオペラでは、器楽のみで演奏される声楽の登場しない部分をイタリア語で「sinfonia」と呼称しており、そのなかで、現在でいうところの「序曲」にあたる部分を、独立した器楽曲として作曲するようになっていった。最初期の例ではないが、前述したようにヴィヴァルディも多数「シンフォニア」と呼ばれる作品を残しており、その編成は基本的に弦楽と通奏低音を組み合わせたもの。《聖なる墓にて》という副題で知られるロ短調RV.169のように、「緩-急」の2楽章構成という、いかにも序曲らしい流れをもつ作品もあるが、彼の「シンフォニア」の大部分は「急-緩-急」という3楽章構成によるものだ。
 ここに新しい要素を加えたのが、ミラノで活躍したジョヴァンニ・バッティスタ・サンマルティーニ(1700頃~1775)だ。兄ジュゼッペ・サンマルティーニ(1695~1750)の「シンフォニア」と比較すると際立つのだが、兄ジュゼッペはヴィヴァルディと同じようなスタイルであるのに対し、弟ジョヴァンニ・バッティスタの作品は後のソナタ形式に繋がる2部形式の構成をもつことからも分かるように、古典派への変化の兆しを感じさせる。
 モーツァルトの初期スタイルの原型となったヨハン・クリスティアン・バッハ(1735~82/大バッハの末息子)が多大な影響を受けたのがジョヴァンニ・バッティスタ・サンマルティーニであることを思えば、彼はモーツァルトの音楽の源泉にあたるといっても差し支えないだろう。
 このスタイルをドイツに持ち込んだのがマンハイム楽派として知られるヨハン・シュターミッツ(1717~57)で、サンマルティーニと同等の内容をもつ「シンフォニア」も作曲しているが、次第に独自のアイデアを付け足すようになっていく。主だったところとしては、オーボエやホルンといった管楽器を編成に組み入れたり、ダイナミックな強弱変化をつけたり、第1楽章アレグロ、第2楽章アダージョ、第3楽章メヌエット、第4楽章プレスト、という4楽章構成を確立したりしたことで、現在我々がイメージする初期の古典派「交響曲」と、ほぼ遜色のない音楽に仕上げた。この形態を受け継ぎ、更に発展させたのが皆さまご存知のヨーゼフ・ハイドン(1732~1809)なのである。
サンマルティーニ
ジョヴァンニ・バッティスタ・サンマルティーニ:シンフォニア ニ長調 J-C14 冒頭
 曲は3つの楽章から成り、計181小節で演奏時間5分ほど。書法はシンプルだが第1・第3楽章はソナタ形式で書かれている。


なぜ、ハイドンが「交響曲の父」と言われるのか?

 しかし、ここでひとつ大きな疑問が浮かんでしまう。今回のエッセイの副題にもなっている“なぜ、ハイドンが「交響曲の父」と言われるのか?” という問題だ。ハイドンが「交響曲」をゼロから生み出した、あるいは1から10へと飛躍的に変化させたのであれば、「交響曲の父」という呼称も納得できるのだが、事実は決してそうではない。ハイドンの功績として語られることもある、ドイツ式の4楽章構成の確立は既にヨハン・シュターミッツの時点で成し遂げられている。では、バロック的な通奏低音を排除したからなのか? 実はそれも違う。初期のハイドンの交響曲に通奏低音が入っていたのは間違いないし、モーツァルトどころかベートーヴェンの交響曲にさえ、通奏低音が入ることはあり得たのだ。

ドイツ音楽至上主義

 ここで意識を向けるべきは、ハイドンは「交響曲の父」であって、「シンフォニアの父」と語られるわけではないという点だ。結論を先に言うと、「交響曲」と「シンフォニア」の呼称問題の根本にあるのは、ドイツ音楽至上主義という価値観なのである。本来はイタリア由来の「交響曲」を、成立の初期事例は「シンフォニア」であると切り離すことで、「交響曲」をドイツの専有遺産であると考えるドイツ音楽至上主義に意識しないまま従っていたのだ。そして、この価値観を主張するうえで担ぎ上げられているのがルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770~1827)なのである。
 つまり、ベートーヴェンの交響曲という偉業を強調するために、その直接的な前身(=ベートーヴェン自身が大きな影響を受けた交響曲)としてドイツ語圏のハイドンとモーツァルトの交響曲――なかでもモーツァルトの後期交響曲にも大きな影響を与えたハイドンの交響曲――を、歴史のスタート地点として位置づけたのだ。「交響曲の父」をコノテーション(言外の意味)として理解するならば、「(ベートーヴェンの)交響曲の父」にあたるのがハイドンなのである。
 ベートーヴェンの死後、年月を経るほど彼の交響曲の影響力が大きくなっていった事実も、この状況を補完した。ベートーヴェンが亡くなった1827年、音楽界の頂点にいたのは事実上、ジョアキーノ・ロッシーニ(1792~1868)であったことが象徴的であるように、当時、経済的・名声的に成功を収めていたのはオペラの作曲家だった。ところが19世紀半ばにドイツやオーストリアの作曲家、そしてフランスのエクトル・ベルリオーズ(1803~1869)がベートーヴェンにインスパイアされて作品を生み出していったように、時代が下るほど影響を受ける範囲が広がり、20世紀に入ってオペラの地盤沈下が進むと、いよいよ「交響曲」こそが西洋芸術音楽の頂点に君臨するようになる。
 いわば下剋上ともいえる価値転換を起こした最大の要因は、「交響曲は乱作すべきではなく、自身がやりたいことを追求する場」という、まさにベートーヴェンが生涯を懸けて体現した価値観だった。交響曲の歴史を塗り替えた最大の功労者は間違いなくベートーヴェンなのだ。
ベートーヴェン《英雄》 イメージ
ベートーヴェン:交響曲第3番 変ホ長調 op. 55《英雄》冒頭
 2管編成の管楽器(この曲はホルン3本)とティンパニを備え、弦楽ではチェロとコントラバスを独立させて用いるなど、先進的なオーケストラ書法を駆使。4つの楽章から成り、計1853小節で演奏時間は50分以上。サンマルティーニ作品から半世紀を経て、規模を10倍に拡大したことになる。