東京都交響楽団

史上空前の革命家
ベートーヴェンが
遺したもの

第3回

ベートーヴェンと「スケルツォ」
~なぜ、「メヌエット」ではダメなのか?

「メヌエット」の登場

 冒頭からしばし、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770~1827)以前の話が続くが、どうかご容赦いただきたい。本連載第2回で取り上げたように、交響曲の4楽章制を確立したのは、マンハイム楽派として知られるヨハン・シュターミッツ(1717~57)であった。それ以前、イタリアのジョヴァンニ・バッティスタ・サンマルティーニ(1700頃~1775)にも4楽章制の交響曲はあることはあったが、そもそも作品数が少ないため“確立した” とは言い難いのである。
 もうひとつ、両者の違いで重要になるのが「メヌエット」の位置だ。サンマルティーニが「メヌエット」を含める場合は曲の最終楽章に置いたのに対し、シュターミッツは最終楽章の前(つまり第3楽章)に舞曲楽章を置いている。この違いを理解するためには、バロック時代の《組曲》に一旦さかのぼる必要がある。
 ルネサンス時代の14世紀頃から、様々な舞曲を並べた《組曲》が作曲されたが、バロック時代に入った17世紀半ばのイギリスで「アルマンド」「クーラント」「サラバンド」「ジーグ」(急-急-緩-急)という組み合わせが登場。以後、この構成をもとに舞曲を足し引きするような形で、様々な《組曲》が作曲されていく。
 時を同じくして17世紀半ば、ヨーロッパの貴族社会で人気を博したフランス発の舞曲「メヌエット」は、17世紀後半にフランスの作曲家たちによって《組曲》へ組み込まれ始める。ただし当初は「ジーグ」よりあと、《組曲》の最後に「メヌエット」が置かれることが多かった。当時の「メヌエット」人気を思えば、トリに置かれるのは納得だ。前述したサンマルティーニもこの流れを汲んでいる。
 一方、フランスに生まれ、イギリスで活躍したシャルル・デュパール(1667~1740)は「サラバンド」と「ジーグ」のあいだに「メヌエット」などの舞曲を挿入したのだが、このスタイルを模したのが、ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685~1750)の鍵盤作品《イギリス組曲》(全6曲)であった(実際、第4番には「メヌエット」が登場する)。
 「サラバンド」を緩徐楽章(第2楽章)、「ジーグ」を終楽章(第4楽章)に見立てれば、前述したシュターミッツはこの流れを汲んでいることがご理解いただけるだろう。これが交響曲の第3楽章に「メヌエット」が組み入れられるようになった前日譚である。

「スケルツォ」の登場

 前置きが長くなったが、ここからがベートーヴェンの話題だ。故郷ボンでは3楽章制(急-緩-急)の作品ばかり書いていたベートーヴェンも、ヨーゼフ・ハイドン(1732~1809)に師事するためにウィーンへ拠点を移してから、4楽章制の作品が中心になっていく。興味深いのは、ハイドンはピアノ入り室内楽曲やピアノ独奏曲について原則3楽章制をとっていたにもかかわらず、ベートーヴェンはop. 1にあたるピアノ三重奏曲第1~3番、op. 2にあたるピアノ・ソナタ第1~3番の全てで4楽章制をとっているのだ。しかも、件の第3楽章について、ピアノ三重奏曲第3番とピアノ・ソナタ第1番だけは「メヌエット」で、残りの4曲は「スケルツォ」と明示されているのである。
 ドイツ語とイタリア語で「冗談」を意味する「スケルツォ」というタイトルが音楽に用いられる事例は17世紀初頭までさかのぼることができ、18世紀に入ってからはバッハの《パルティータ第3番》に「スケルツォ」が登場するが、いずれも今回のテーマとの繋がりはないに等しい。ベートーヴェンの「スケルツォ」の起源と考えられるのは、(モーツァルトが弦楽四重奏曲第14~19番《ハイドン・セット》を作曲するきっかけとなったことでも知られる)ハイドンの弦楽四重奏曲第37~42番《ロシア四重奏曲》であろう。それはなぜか?
 大前提として押さえておかなければならないのは、舞曲楽章と認識されていながらも「スケルツォ」という舞曲は存在しないという点だ。具体的な舞曲ではないからこそ、3拍子と2拍子の「スケルツォ」が両方存在しうる。『新編 音楽中事典』(音楽之友社、2002年)の「スケルツォ」の項目には「おもに,ひょうきんな楽想の急速な3拍子の器楽曲に与えられた名称」と書かれているが(「おもに」と触れているので、間違いでこそないのだが)、この説明では誤解を招く可能性があるだろう。2拍子の「スケルツォ」として、前述したバッハの《パルティータ第3番》、ハイドンのピアノ三重奏曲第5番 Hob.XV:39、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第18番、シューマンの交響曲第2番など、少なくない例を挙げることができる。
 それでも何故、「スケルツォ」といえば3拍子というイメージが強いのかといえば、「スケルツォ」の多くが、舞曲という縛りから解き放たれ、音楽的な観点から自由に飛翔させた、「メヌエット」の発展形であるからだ。そして、「メヌエット」の自由な変形としての「スケルツォ」を、早くも提示したのが《ロシア四重奏曲》だったのである。アレグレット(=アレグロよりやや遅く)というテンポ指示の多かった「メヌエット」を、ハイドンはアレグロへとテンポアップさせたり、3拍子のリズムを崩すヘミオラを取り入れたりすることで、貴族社会の優雅さを捨てる代わりに、作曲家の新しい発想を加えやすい姿に変えた。このことを指して、ハイドンは「メヌエット」ではなく、「スケルツォ(冗談、おふざけ、戯れ)」と名づけ直したのだろう。
サンマルティーニ
ハイドン:交響曲第104番《ロンドン》 第3楽章 メヌエット 第53~57小節
 最後の交響曲《ロンドン》第3楽章「メヌエット」の主部はほぼスケルツォといえるが、トリオ(中間部)冒頭の美しいオーボエ・ソロにはいまだ貴族社会の優雅さが反響している。


未来の予言者

 しかし、ハイドンはその後の弦楽四重奏曲で「スケルツォ」を書かず、交響曲では常に「メヌエット」と銘打った楽章を置いた。対してベートーヴェンは、師ハイドンの一時的な実験的アイデアである「スケルツォ」を、大胆にも初期作から採用して標準化したのである。これがいかに尖った行為だったのか、お分かりいただけるだろう。
 また、「メヌエット」と書かれているのにもかかわらず、明らかに中身は「スケルツォ」……という観点で議論されてきたベートーヴェンの交響曲第1番や第4番の第3楽章(第4番では従来明記されていなかったが、ブライトコプフ・ウント・ヘルテル社から2013年に出版された新全集版で第3楽章は「メヌエット」とされた)についても、「スケルツォ」が「メヌエット」の変形であると理解すれば、どちらであるかを結論づける必要はなくなる。重要なのは「(ハイドンやモーツァルトまでの)メヌエットから、どのくらい逸脱しているのか?」という変化のグラデーションであって、「どこからがスケルツォであるか?」という切り替えポイントは存在しないのだから。ゆえに、交響曲第5番《運命》・第6番《田園》・第7番の第3楽章、および第9番《合唱付》の第2楽章には敢えて「スケルツォ」とも明示されなくなったのではないだろうか。
 そして、ベートーヴェンの「メヌエット」「スケルツォ」の違いを考える上で、最も興味深いのが交響曲第8番だ。第2楽章のアレグレット・スケルツァンドは、「スケルツォ」でも3拍子でもないのだが、同時に緩徐楽章のテンポ設定(基本はアンダンテ以下)でもないことに注目したい。前述したようにアレグレットは、「メヌエット」に頻出するテンポであることを顧みれば、この第2楽章は「メヌエット」から派生した「スケルツォ」の定形でこそなくとも、類似の楽章であるとはいえるだろう(実際に曲の内容も「スケルツォ(冗談)」の名にふさわしい)。
 一方、第8番の第3楽章はテンポ・ディ・メヌエット(メヌエットのテンポで)とはっきり「メヌエット」と明記され、実際にあまり速くないテンポで演奏されるが、「メヌエット」の雰囲気を保ったままで、充分に「スケルツォ」的な遊びを打ち出せることを主張しているかのようにも感じられる。こうした事例をみていくと、「メヌエットがスケルツォに置き換わった」と単純に言い切ってはいけない気さえしてくる――のだが、「メヌエット」が19世紀に廃れてしまった理由だけは簡単に説明できる。
 貴族社会と結びつきの深い「メヌエット」は、フランス革命(1789年)を経た後の19世紀という時代にふさわしくなかったのだ。その空気を誰よりも先に察知し、「スケルツォ」を率先して定着させたベートーヴェンは、この一点だけとっても未来の予言者だったといえるだろう。
ベートーヴェン《英雄》 イメージ
ベートーヴェン:交響曲第2番 第3楽章 スケルツォ 冒頭
 ベートーヴェンが交響曲で初めて「スケルツォ」と明記した楽章。主部の冒頭では強弱が頻繁に入れ替わり、まるで市民社会のエネルギーを象徴しているかのようだ。