東京都交響楽団

史上空前の革命家
ベートーヴェンが
遺したもの

第5回

ベートーヴェンと「変奏曲」
~変奏技法を受け継いだのは誰か?

変奏曲に始まり変奏曲で終わる

 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770~1827)の作品が初めて出版されたのは1782年――なんと11歳の頃だった。前年からヨハン・セバスティアン・バッハの曾孫弟子にあたるクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェ(1748~98)に師事。ネーフェは少年ベートーヴェンの才能を高く買い、自らが不在の際にはオルガニストの仕事を任せていたほどだった。弟子の才能を広めるため、マンハイムの出版社ゲッツを紹介して出版にまでこぎ着けたのがピアノのための《ドレスラーの行進曲による9つの変奏曲》WoO63(1782年)(WoO = Werk ohne Opuszahl/作品番号なしの作品)である。そう、ベートーヴェン最初の作品は変奏曲なのだ。
 そして時は流れて44年。ベートーヴェンが生涯最後に完成させた作品(改訂や小品は除く)となる弦楽四重奏曲第16番ヘ長調op.135(1826年)でも、第3楽章は変奏曲になっている。つまり、ベートーヴェンの創作は変奏曲に始まり変奏曲で終わるのだ……というのはさすがに強引だが、最初期から最晩年に至るまでベートーヴェンがソナタ形式と並行して変奏曲にも向き合い続け、新たな可能性を模索してきたことは間違いない。彼が何を変えたのか、時系列で軌跡を辿ってみよう。

連続性をもった多様な変奏

 《ドレスラーの行進曲による9つの変奏曲》の次に書かれたピアノのための変奏曲は《リギーニのアリエッタによる24の変奏曲》WoO65(1791年)である。ウィーンに拠点を移す前の作品だがベートーヴェンは既に20歳となり(ただし本人は自分の実年齢よりも1~2年若く、歳を数えていたのだが……)、作曲技術が著しく進歩。ひとつの主題から多様な変奏を導きだせるようになっていたが、変奏曲全体を通してのドラマの構築力はまだ弱かった。その後、こうした既存のメロディを主題に設定した変奏曲を1790年代に10曲ほど繰り返し手がけたことで、この問題も改善されていく。
 その上で、新たな道へと踏み出し始めたのが、既存の旋律を使わず主題を自作したピアノのための2つの変奏曲(op.34、op.35)であった。《自作主題による6つの変奏曲》op.34(1802年)は、第1変奏から同主調以外に転調してしまう(ヘ長調→ニ長調)ことで変奏曲の基本ルールを大胆に破り、第4変奏ではメヌエット風、第5変奏では行進曲風に変化することで、後の《ディアベリ変奏曲》op.120(1823年)で花開く性格変奏の萌芽を見出せる作品となっているのだ。
 そして、もう一方の《自作主題による15の変奏曲とフーガ(通称「エロイカ変奏曲」)》op.35(1802年)は、《12のコントルダンス》WoO14(1802年)の第7曲と、バレエ《プロメテウスの創造物》op.43(1801年)のフィナーレで用いられていた旋律を主題としているのだが、高音部の旋律だけでなく、低音(バス)も独立した主題として扱われるのが最大の特徴だ。これによりバス・ラインをもとにしたパッサカリア風の変奏が可能になったり、バス・ラインが最終的にフーガ主題へと姿を変えたりと、変奏自体の曲想を大きく変えることなく連続性をもった多様な変奏を生み出しやすくなった。更には同じ主題とコンセプトが用いられて、交響曲第3番変ホ長調op.55《英雄》(1803年)の第4楽章へと発展的にリメイクされたことも、op.35が重要視される所以となっている。

コンセプトの“結合”

 これ以後の奇数番号の交響曲――第5番ハ短調op.67《運命》(1807年)の第2楽章、第7番イ長調op.92(1812年)の第2楽章、第9番ニ短調op.125《合唱付》(1824年)の第3楽章――では変奏曲の採用が続いていくのも興味深い。しかし、ひとつ誤解してはならないのは、交響曲、室内楽、ピアノ独奏曲といった多楽章構成の作品の一部に変奏曲を採用すること自体は新たな試みとはいえないという点だ。ハイドンやモーツァルト、そしてベートーヴェン自身にも先例が沢山存在している。ところが、それらを後期の作風へと至る道程と位置づければ、新たな視座が開けてくる。鍵となるのは、「最終楽章」や「緩徐楽章」を変奏曲にするというコンセプトの“結合” である。
 例えばピアノ・ソナタ第30番ホ長調op.109(1820年)の第3楽章と、第32番ハ短調op.111(1822年)の第2楽章において、「緩徐楽章」にあたる叙情的な音楽を変奏していくことで、ベートーヴェンは「最終楽章」に相応しいクライマックスをもつ音楽にまで昇華させてしまう。4楽章制ソナタを構成するうちの「緩徐楽章」と「最終楽章」をひとつに結合することで第30番は3楽章制となり、第32番に至ってはそれに加え、スケルツォの持つ無窮動的な要素がソナタ形式による第1楽章に託されることで、ピアノ・ソナタのエッセンスを2楽章制にまとめてしまっている。

作劇ルールの書き換え

 なぜ、これほどまでに大胆なことをしてしまったのかを理解するためには、中期以降のベートーヴェンが、ソナタ形式における再現部冒頭を提示部の単なる再現にしなかったり、終結部が第2の展開部となることで終止線へとむかってクライマックスが築かれていく音楽にしたりと、ソナタ形式における作劇(ドラマツルギー)のルールを書き換えていった事実を思い起こす必要があるだろう。そもそも中期のベートーヴェンにみられる著しいクライマックス志向は本来、ソナタ形式ではなく変奏曲に内在している作劇法だからだ。

変奏曲にドラマを盛り込む

 ピアノ・ソナタ第29番変ロ長調op.106《ハンマークラヴィーア》(1818年)で真っ当なソナタ形式や4楽章制ソナタで当時できうる限りのドラマ性を追求し尽くしてしまったからこそ、第30~32番のピアノ・ソナタでベートーヴェンはソナタ形式の楽章を縮小し、変奏曲楽章に代わりとなるドラマを盛り込んだのであろう。第31番変イ長調op.110(1822年)(3楽章制)には変奏曲こそ含まれていないが、第3楽章では緩徐楽章とフーガが結合されることで近しい発想のドラマを生み出している。また、テンポは緩徐楽章的ではないが――ただし主題は歌謡的である――交響曲第9番《合唱付》の第4楽章も、終楽章を構成する基本原理が主題の変奏になっているという意味では、これまた近しいアイデアをもった音楽だとみなすことができるだろう。
 そしてベートーヴェンが最晩年に集中的に手がけた後期の弦楽四重奏曲第12~16番(1824~26年)も、ピアノ・ソナタ第30~32番での試みから派生したものと考えることができる。例えばピアノ・ソナタでは第32番にむかって楽章数を減らしていったのに対し、弦楽四重奏曲では書かれた順に第12番変ホ長調op.127は4楽章制、第15番イ短調op.132は5楽章制、第13番変ロ長調op.130は6楽章制、第14番嬰ハ短調op.131は7楽章制と楽章数を増やしていき、実質的な最後の作品となる第16番ヘ長調op.135で再び4楽章制へと戻っている。そのうち第13番以外は緩徐楽章が変奏曲となっており、第12番・第15番・第14番は各楽章のなかで緩徐楽章(=変奏曲)が最も演奏時間の長い、重きの置かれた楽章となっている。
 ただ、後期ピアノ・ソナタと異なっているのは、長い緩徐楽章が最終楽章ではなく、こうした楽章の本来の位置である、曲のなかほどに配置されている点だ。少しずつ形を変えつつ、最晩年に至ってもベートーヴェンは新たな構成を模索し続けていたことがうかがえる。

後継者はマーラー

 こうしたベートーヴェンの探求は、後世の作曲家たちへと受け継がれてゆく。意外に思われるかもしれないが、その正当なる後継者はグスタフ・マーラー(1860~1911)だったのではないか。
 例えば、ベートーヴェン最後の変奏曲である弦楽四重奏曲第16番第3楽章の旋律線は、明確にマーラーの交響曲第3番ニ短調(1896年)第6楽章の原型となっているし、変ニ長調と嬰ハ短調というエンハーモニック(異名同音)な同主調が対比される転調は、交響曲第9番ニ長調(1910年)の第4楽章へと引き継がれている。そして、これら2つの交響曲の最終楽章が、緩徐楽章かつ変奏曲(正確には2つの主題が代わる代わる変奏される「二重変奏曲」)になっているのも、ベートーヴェンがピアノ・ソナタ第30番・第32番で志向した試みを継いでいるようにみえる。
 更には村井翔氏らの研究者たちも指摘するように、マーラーの交響曲第9番の第1楽章は、ソナタ形式の原理だけでは説明ができなくなり、そこに前述した二重変奏曲の要素も掛け合わされてくる。このソナタ形式と変奏曲をミックスしたマーラーの独自の形式こそ、晩年のベートーヴェンがソナタ形式や変奏曲をスクラップ・アンド・ビルドしていた試みの延長線上に位置するものなのではないだろうか。チャイコフスキーの交響曲第6番ロ短調op.74《悲愴》(1893年)がモデルとなったのではないかと語られることの多いマーラーの第9番だが、作曲上のコンセプトを熟考すれば晩年のベートーヴェンの変奏曲にこそ、起源があるように思えてならない。
ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第16番ヘ長調op.135 第3楽章冒頭
ベートーヴェン譜例
マーラー:交響曲第3番ニ短調 第6楽章冒頭
ベートーヴェン譜例
 調性も拍子も異なるが、旋律線の核を成す音(ベートーヴェン op.135の○印)が呼応している。