東京都交響楽団

史上空前の革命家
ベートーヴェンが
遺したもの

第6回

ベートーヴェンと「ソナタ形式」
~ポスト・ベートーヴェンをめぐって

ソナタ形式はいつ生まれたのか

 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770~1827)の作品に限らず、18世紀後半以降――つまり古典派以降の楽曲解説には、「ソナタ形式」という専門用語が必ずといっていいほど登場する。一般的に、「提示部」「展開部」「再現部」の3つの部分で構成されると解説されている「ソナタ形式(英:sonata form/独:Sonatenform)」という概念を、実はベートーヴェンは知る由もなかった、という事実をご存知だろうか。
 専門書を紐解いてみると、「ソナタ形式」という言葉は1820年代から意味が曖昧なまま使われ始めているのだが、この形式の概念が確立され広まったのは、音楽理論家アドルフ・ベルンハルト・マルクス(1795~1866)の著作『作曲法、実践理論 (Die Lehre von der musikalischen Komposition, praktisch-theoretisch)』(全4巻)の第3巻が出版された1845年以降のこととされている。つまり、1827年に亡くなっているベートーヴェンは、我々のイメージするような「ソナタ形式」を知りようがないのだ。マルクスの教本を使って勉強しているのは、アントン・ブルックナー(1824~96)あたりからとなる〔ただしブルックナーの形式観はマルクスではなく、ヨハン・クリスティアン・ローベ(1797~1881)という別の理論家の著作がもとになっている〕。

ソナタ形式は何部で構成されているのか

 件のマルクスの『作曲法、実践理論』第3巻を実際に開いてみると、「ソナタ形式」は次のように図式化されている。

ソナタ形式

 この時点では「提示部」「展開部」「再現部」や「第1主題」「第2主題」といった名前は付けられていないのだが、3部分からなる形式と位置づけたのが重要なポイント、かつ画期的だったといえる。
 というのも、マルクスと近しい時期にこの形式を語っている作曲家カール・ツェルニー(1791~1857/ピアノ練習曲が有名)や先述したローベ、あるいはその前の時代においてこの形式を記述しようとしていた音楽理論家ハインリヒ・クリストフ・コッホ(1749~1816)や音楽学者ヨハン・ニコラウス・フォルケル(1749~1818/バッハ研究で知られる)も、2部分からなる形式と定義していたからだ。
 では、マルクスとそれ以外の論者とのスタンスの違いはどのように生じ、その違いは何を意味しているのであろうか? これを読み解くキーマンとなるのが、この連載の主人公ベートーヴェンなのである。「ソナタ形式」が生まれる前、バロック時代の「ソナタ」にいま一度さかのぼって、歴史を整理してみよう。

バロック時代のソナタと「2部形式」

 イタリア語で「歌う」という意味のcantare(カンターレ)から派生した「カンタータ」に対し、「弾く」という意味のsuonare(スオナーレ)から派生したのが「ソナタ」であった。当初の「ソナタ」には単なる「器楽曲」という以上のニュアンスはなかったが、ジョヴァンニ・レグレンツィ(1626~90)やアルカンジェロ・コレッリ(1653~1713)といったバロック中期の作曲家たちによって、「教会ソナタ」や「室内ソナタ」と呼ばれる複数楽章から構成されたバロック独自のソナタが書かれ、このスタイルがヨハン・セバスティアン・バッハ(1685~1750)らにも受け継がれていく。
 こうしたバロック時代のソナタには、前半(第1部)と後半(第2部)を2回ずつ反復する「2部形式」が頻出するのだが、実はこれこそが「ソナタ形式」の素(もと)となった形式だった。2部形式を構成する上で「主題」の存在は必須ではないが、古典派のソナタ形式に近づいていくなかで、第1部の主調部分は「主楽節(第1主題)」、属調部分は「副楽節(第2主題)」と徐々に結びついていく(以下は、主調をハ長調またはイ短調とした場合の典型例)。

ソナタ形式

 そのため、2部形式の楽曲構造を形作るのは、(主題の移り変わりではなく)あくまでも調の変遷である。主調で始まり、長調なら属調(短調なら平行調)を経て、転調を繰り返したのち、最後に主調へと戻ってくる。
 こうした調性の構造自体は、リトルネッロ形式(バロック時代の協奏曲で用いられる形式)やフーガをはじめ、バロックの中・後期の様々な楽曲で非常に多く使われている。そして2部形式の場合は属調(短調なら平行調)を確立する場面で区切り、前半(第1部)と後半(第2部)に分割。第1部と第2部それぞれにリピート記号が付されるのがキモとなる。その後のソナタ形式において、第1部のリピートは「提示部」の反復、そして第2部のリピートは「展開部+再現部」の反復になっていくからだ。
 なぜ、ソナタ形式は提示部が反復されるのか?……という疑問に対し、「主題を覚えてもらうため」と解説している文章を見かけることがあるが、少なくとも歴史的な経緯から見ればこの回答は正しいとは言えない。18世紀後半において、「ソナタ形式」≒「2部形式」(もしくはその変形)なので、「2部形式の第1部」に相当する「提示部」は繰り返されるのだ。ゆえに、モーツァルトや初期ベートーヴェンあたりまで「展開部+再現部」(≒2部形式の第2部)も反復されていたのである。

「ソナタ形式」はなぜ3部分に分割されたのか

 「ソナタ形式≒2部形式」ということが分かれば、前述したツェルニーらがこの形式を2部分からなる形式と語っていたことは何ら不思議ではない。むしろマルクスは何故、どのようにしてソナタ形式を――いま我々が知っているように!――3部分からなる形式と位置づけたのかの方が疑問に思えてくる。
 作曲家でもあるマルクスは、フェリックス・メンデルスゾーン(1809~47)の師として知られるカール・フリードリヒ・ツェルター(1758~1832)に師事。後にメンデルスゾーン家とも親交を結び、若きフェリックスにも大きな影響を与えたが、1841年に両者は仲違いしてしまう。直接の原因はメンデルスゾーンがマルクス作曲のオラトリオ《モーゼ》の上演を拒否したことにあったが、徐々に革新的な新ドイツ派(リスト、ワーグナー)へと接近していくマルクスを、保守派のメンデルスゾーンは受け入れ難くなっていたのだろう。
 まさにこの頃、マルクスはソナタ形式を図式化しようとしていた。その時のモデルとなったのはベートーヴェンが遺したピアノ・ソナタだったのだが、ここで勘違いしてはいけないのは、マルクスは帰納法(複数の対象物に共通する要素を抜き出す)的にソナタ形式を図式化したとは言い難い点だ。マルクスによるソナタ形式観は、社会学者マックス・ウェーバー(1864~1920)がいうところの「理念型(理想型)」であり、マルクス自身による「こうあって欲しい」という考えが強く反映されている。そう思えて仕方ないのは、『作曲法、実践理論』第3巻におけるソナタ形式の図式化と、その翌年にマルクスが出版した自作の《ピアノ・ソナタ》ホ短調op.16の親和性があまりに高いからだ。
 マルクスによるソナタの第1楽章は、明らかにベートーヴェンのピアノ・ソナタ第8番ハ短調op.13《悲愴》第1楽章を下敷きにしているのだが、2部形式的な要素(リピート記号、定型的な調性の変遷)は完全に排除されている。具体的に転調の流れを追ってみても、イ長調(下属調の同主調)の序奏を経て、第1部に突入。主楽節はホ短調(主調)、副楽節はハ短調(Ⅵ度調の同主調)、終楽節でハ長調(Ⅵ度調)……と、意識的にバロック時代以来の定型コースから大きく外れている(定型ならば第1部はホ短調→ト長調→ト長調と進む)。
 更にダメ押しで、第2部と第3部の冒頭にも序奏のテンポが回帰。これにより、3部分で構成されていることを聴覚的にも分かりやすく強調している。
 なお、その後のマルクスは1859年に『ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン:生涯と創作』という評伝を出版。このなかでベートーヴェンの交響曲第3番変ホ長調op.55《英雄》を、ナポレオンが登場する交響詩のように読み解いている(例えば、第1楽章冒頭の和音2発は「聴け!聴け!」といったように……)。こうした事実も踏まえるに、ソナタ形式を3部分からなる形式と捉えたマルクスの考え方は、「バロック時代~古典派」との徹底的な決別であり、自己の創作を正統化する行為だったのではないか。

まとめ

 調性構造を軽視し、主題ばかりを重要視するマルクスのソナタ形式観は、20世紀になってから音楽学の領域ではたびたび批判の対象となってきたが、作曲法の観点からは長らくこの考え方が支配的だった。リストとワーグナーに続くマーラー、シェーンベルク、ウェーベルン、ブーレーズらによる、(調性ではなく)主題によって楽曲の構造を形作っていく音楽を、後押しするものだったからだろう。日本でも、1965年に出版された諸井三郎(1903~77)の『ベートーヴェン ピアノソナタ 作曲学的研究』(音楽之友社)などは、マルクスによるソナタ形式観の延長線上にあるものといえる。
 しかしここまで見てきたように、ソナタ形式は、その成り立ちからいって「2部形式」に準じるものとして捉えるべきなのだ。ベートーヴェンがこの形式とどのように向き合ってきたかは、この連載の最終回となる次回みていくことにしよう。
アドルフ・ベルンハルト・マルクス:ピアノ・ソナタ ホ短調 op.16 第1楽章 第31~36小節
序奏に続く主楽節(第1主題)冒頭
ベートーヴェン譜例