東京都交響楽団

史上空前の革命家
ベートーヴェンが
遺したもの

第7回(最終回)

ベートーヴェンの「ソナタ」
~形式からの自由

 前回触れたように、イタリア語で「弾く」という意味のsuonare(スオナーレ)から派生したのが「ソナタ」であった。当初は単に「器楽曲」という以上のニュアンスはなかったのだが、〔「ソナタ形式」の素(もと)となった〕「2部形式」と結びついたことで、ソナタの運命は変わってゆく。「ソナタ形式」という概念がどのように生まれたかに関しては、この連載の前回をお読みいただくとして、今回は敢えて「ソナタ」「2部形式」という視点を主にして、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770~1827)が、作品の形式を、その生涯の中でどう変容させていったのかをみていくことにしよう。

10代のソナタ~楽聖の出発点

 現在さかのぼることができるベートーヴェン最初期のソナタとなるのが、全て「急―緩―急」の3楽章制で書かれた、クラヴィーア(ピアノ)のための《3つの選帝侯ソナタ》WoO 47(1782~83年)(WoO=Werk ohne Opuszahl/作品番号なしの作品)である。12歳頃に作曲したこの作品からは、師であるクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェ(1748~98)の《12のクラヴィーア・ソナタ》(1773年)を下敷きにした痕跡も感じ取れるが、実際の音を耳にして多くの人が連想するのは、若い頃のヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756~91)であろう。《3つの選帝侯ソナタ》が完成した1783年には、音楽誌で「必ずや第2のモーツァルトになるだろう」と書かれている通り、本人や周囲が意識していたことは間違いない。
 このうち、2部形式という観点から注目すべきは《選帝侯ソナタ第2番》 ヘ短調 第1楽章。テンポの遅い序奏部が付いていることや、後半部(展開部+再現部)にリピート記号が用いられていないことなど、3つのソナタのなかで最も先進的な内容になっている。フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732~1809)やモーツァルトも、オーケストラ作品では序奏部を付けたり、リピート記号に関しては後期のソナタで同様のことをしたりしているので、完全にベートーヴェン独自とまでは言えないまでも、ここでの試みは後のピアノ・ソナタ第8番 ハ短調 op.13《悲愴》(1797~98年)へ繋がっていくために重要だ。

20代のソナタ~ハイドン、モーツァルトを乗り越える

 ウィーンに定住し、ハイドンに師事してから書かれた《3つのピアノ・ソナタ》op.2〔第1~3番〕(1793~95年)では、楽章内で紡がれていく複数の旋律に関係性を持たせたり、4つの楽章に共通する要素を持たせたりと、基礎的な作曲技術の向上が明らかだ。
 形式面として重要なのは、何といっても4楽章制を採用したこと。ハイドンやモーツァルトが4楽章制を標準にしていたのは交響曲や弦楽四重奏曲であって、ソナタは3楽章制が主であったことを思えば、ピアノ・ソナタを変革しようという強い意志を感じることができる。
 もちろん、度々このあともベートーヴェンによって3楽章制のソナタは書かれるが、4楽章制をイレギュラーなものとしないことで、オペラから派生した交響曲、セレナーデやディヴェルティメントから派生した弦楽四重奏曲……と、それぞれ起源は異なっていても、ソナタを交響曲や弦楽四重奏曲と横並びの存在へと変貌させた。別の角度からいえば、交響曲とは「管弦楽のためのソナタ」、弦楽四重奏曲とは「弦楽四重奏のためのソナタ」であると言い換えられるようになったとも捉えられるだろう。

30代のソナタ~変奏/展開の大規模化

 初期の集大成に位置づけられることの多い、《6つの弦楽四重奏曲》〔第1~6番〕op.18(1798~1800年)と交響曲第1番ハ長調 op.21(1799~1800年)を書き上げたあと、ベートーヴェンは実験的な作品を多く手掛けるようになる。
 2部形式(≒ソナタ形式)的な楽章をもたないピアノ・ソナタ第12番 変イ長調 op.26(1800~01年)、ベートーヴェン自身によって《幻想曲風ソナタ》と名付けられた《2つのピアノ・ソナタ》(第13・14番)op. 27(1800~01年)といったあたりが代表例だ。特に《月光》の愛称で知られるピアノ・ソナタ第14番 嬰ハ短調は、最終楽章に重きを置くフィナーレ志向が顕著で、楽章数や構成は異なっていても交響曲第5番 ハ短調 op.67《運命》(1807年)などへと繋がっていく。
 とはいえ、一般に中期と称される作風に転じるのは1803年以降のこと。交響曲第3番 変ホ長調 op.55《英雄》(1803年)は作品全体としても長大だが、形式面から見て重要なのは、第1楽章の後半部(展開部+再現部+第2の展開部としての終結部)が長くなった点だ。交響曲の第1・2番の第1楽章においては、「リピートされた前半部」と「後半部」の長さが大きく変わらなかったのに対して、第3番《英雄》や第5番《運命》では前半部と比べて後半部が1.5~1.8倍程度にまで拡大されている。
 他にも、《英雄》の終楽章を変奏曲にしていることや、ピアノ・ソナタ第23番 ヘ短調 op.57《熱情》(1804~05年)で第3楽章の後半部分だけをリピートしていること(その結果、ロンド風に!)、そして弦楽四重奏曲第7番 ヘ長調 op.59-1《ラズモフスキー第1番》(1806年)の4楽章すべてが2部形式(ソナタ形式)になっていることも全て、「主題の変奏/展開を長く聴かせようとしている」……と考えれば、筋の通った変化として捉えることができる。

40・50代のソナタ~形式からの自由

 さて、(前回の連載で取り扱った音楽理論家アドルフ・ベルンハルト・マルクスが意図した通り)「ソナタ形式」が「2部形式」から完全独立するためには、前半・後半ともにリピート記号が用いられない状態が常態化してゆく必要がある。実際、マルクスが図式化したソナタ形式の説明や、彼の書いたピアノ・ソナタの第1楽章にはリピート記号が用いられていない。
 例えばベートーヴェンが30代で書いたピアノ・ソナタ第23番《熱情》第1楽章で既に、前半・後半ともにリピート記号が登場しない例は現れている。また40代に入って(いわゆる後期への過渡期に)書かれた弦楽四重奏曲第11番 ヘ短調 op.95《セリオーソ》(1810~11年)第1楽章においても、前半・後半ともにリピート記号を用いていない。
 一方、さらに興味深いのは50代の最晩年に作曲された弦楽四重奏曲第16番 ヘ長調 op. 135(1826年)で、第1楽章でリピート記号が用いられないのに対し、第4楽章では反対に前半・後半ともにリピート記号が付けられているのだ。
 ここから分かるのは、12歳で作曲した《選帝侯ソナタ第2番》の時点で既に後半部をリピートしない事例が存在しても、最晩年に至るまで「後半部のリピート」という選択肢をベートーヴェンが捨てていなかったことだ。ゆえに「古典派からロマン派にかけてリピートされなくなっていく」といったような進歩史観に基づく「ソナタ形式」理解は危ういものと言わざるを得ない。
 むしろリピート記号を用いない、先述した《熱情》、《セリオーソ》、弦楽四重奏曲第16番のそれぞれ第1楽章に共通するのは、楽章内のセクションの切れ目を曖昧にして、終止線まで一本道に続く音楽として聴かせようという姿勢である。この路線を徹底した到達点に位置づけられるのが、ピアノ・ソナタ第30番 ホ長調 op.109(1820年)第1楽章であろう。主要主題(第1主題)と副次主題(第2主題)はそれぞれ異なるテンポ、表情記号をもち、その切れ目は明確だ。そして聴覚上この2つのセクションの違いが前面に出るからこそ、「提示部」「展開部」「再現部」「終結部」の切れ目は曖昧なものとなっている。
 ピアノ・ソナタ第30番第1楽章は、ベートーヴェンが遺したソナタ形式による音楽のなかで、2部形式から最も逸脱しながら、マルクス的なソナタ形式観にも与しない(マルクスの図式化における経過句も終楽節も存在しない!)ものだ。
 ベートーヴェンが生涯を賭して体現してきたソナタのあり方は、原理主義とは正反対のものであった。ソナタの第1楽章に頻出する形式を「ソナタ形式」と呼ぶのはさほど問題ないとは思うのだが、「ソナタ形式」をかっちりと定義づけようとすることによって、ピアノ・ソナタ第30番第1楽章における形式を「ソナタ形式ならざるもの」もしくは「自由なソナタ形式」とみなすのは本末転倒であろう。ベートーヴェンのソナタは、自由そのものなのだから。
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第30番 ホ長調 op.109 第1楽章冒頭
ベートーヴェン譜例
「ヴィヴァーチェ、マ・ノン・トロッポ」が主要主題、「アダージョ・エスプレッシーヴォ」が副次主題。テンポも曲想も極端に異なる2つの主題が、経過句もなくいきなり接続されて提示される。2つの主題を「A」「B」とすると、第1楽章は「A―B―A―B―A」の5部分形式で書かれているが、同時にソナタ形式と見なすこともできる両義性をもつ。