東京都交響楽団

スコアの深読み

第1回

音楽で描く空間性
~マーラーから一柳慧まで

停滞による空間性

 あなたは、グスタフ・マーラー(1860~1911)の交響曲第1番《巨人》第1楽章の冒頭を聴くと、どんな情景を頭に思い浮かべるだろうか? 作曲者自身が意図していたのは、“長く続いた冬眠から目覚める春の息吹”なのだという。その意味では、“古のロシアにおける春の訪れ”が実質的な題材となっているストラヴィンスキーのバレエ音楽《春の祭典》と共通するのだが、時代や国の文化の違いによって、全く異なる世界観になっているのが興味深い。
 マーラーの狙いとはズレてしまうのだが、筆者は「A(ラ)」が低音から高音まで弦楽器で幾層にも重ねられたあの響きを肌で感じると、どこまでも広がる地平線を思い起こしてしまう。長く響き続ける「A」から直線を連想するだけでなく、最高音と最低音から感じられるざらついた響きから、野外の大気を通して感じる静寂を想起するからだ。地平線が見えるくらい何もない、だだっ広い空間を感じる。
 音楽は本質的に、常に進んでいかざるを得ないものであるため、実は空間表現との相性はよくない。オペラやバレエ、あるいは映画などのように視覚表現が伴っていれば事情も異なってくるが、音だけ(メロディ、ハーモニー、リズムなど)が時間軸に沿って変化をしていくと、視覚に喩(たと)えるなら“風景の移り変わり”――つまり移動していく感覚が強くなる。それに対して、同じ音響が変化なく続いて、移動する感覚が失われることで、“今ここ”に存在する空間がやっと意識されるようになる。
 マーラーの《巨人》冒頭でいえば、「A」の音が引き伸ばされるなか、主題の核となる動機が提示されたり、ファンファーレやカッコウの鳴き声がまばらに聴こえたりするが、これらの要素が不在になると当然、引き伸ばされた「A」の音だけが聴こえてくる。そうすることで視点が移動しておらず、同じ場所に留まっているかのような印象を与えるのだ(この効果はマーラー自身が意図した“冬の長い眠り”とも呼応する!)。音楽における空間性は、停滞とセットで検討していかねばならない。
 まさに、この観点から空間性を追求してきた作曲家が一柳慧(1933~)である。複数のパートが異なる周期やテンポで不確定的に反復を行っていくセクションが、一柳の楽曲には頻出するが(例えば、都響が2015年に初演した交響曲第9番《ディアスポラ》にも何度も現れる)、そうすることで音楽を停滞させ、空間性が意識されるというわけだ。
 同世代の日本人作曲家でいえば武満徹(1930~96)も、たびたび音楽の空間性を意識した作品を残している。日本の回遊式庭園から着想された(ピアノとオーケストラのための)《弧(アーク)》(1963〜76)では、一柳ほど明確な反復ではないものの、同じような質感をもった音響が異なるテンポで提示されることにより、見える風景が変わる様子を音楽で表現している。視点が移動することで生じる視差(パララックス)効果によるものだと言えるが、単なる移動ではなく、自分が特定の空間内にいることは意識せざるを得ない。
 そして同じ武満作品でも邦楽器を取り入れた(琵琶、尺八、オーケストラのための)《ノヴェンバー・ステップス》(1967)においては、やや異なる空間性が感じられる。尺八と琵琶が核となる部分では、沈黙や間が存在感をもつため、やはり音楽が進行していく印象は弱まり、空間性に意識が向きやすくなるのだ。あるいは尺八が強く吹き鳴らした音がオーケストラへと呼応していく場面は、強風でしなる竹藪(たけやぶ)を想起させる。楽器の配置を駆使したステレオ効果(パンニング)によって、音響が左右にうつろうように書かれていることも、時間よりも空間を意識させる要因となっている。

バンダによる空間性

 ステレオ的な立体音響による空間性という意味では、カールハインツ・シュトックハウゼン(1928~2007)の3群のオーケストラのための《グルッペン》(1955~57)などの例がある。聴衆を楽器で取り囲む作品は、現代音楽のなかで非常に多くみられるが、言ってしまえばそれはバンダ的な発想を拡張したものだと捉えられるだろう。
 オーケストラとは別に配置されるバンダ(「バンド」を意味するイタリア語)はもともと、オペラなどの劇作品で用いられる手法だった。トランペット1本がバンダ扱いとなるベートーヴェンの序曲『レオノーレ』第3番もその文脈で理解すべきだろう。それを劇以外へと転用していったのがベルリオーズで、《幻想交響曲》や《レクイエム》などにその例がみられる。特に後者は、聴衆を四方から金管楽器が囲むよう指示されており、前述したシュトックハウゼンの先駆に位置付けられる。
 マーラーが用いるバンダも、やはりベルリオーズの延長線に位置しており、交響曲では第4番・第5番・第9番(と《大地の歌》)を除いて、残りの6曲には舞台上以外から楽器を演奏する指示が含まれている。必ずしもマーラー本人が明確に指示しているとは言えないが、ここで印象深い例として挙げたいのが交響曲第8番《千人の交響曲》第2部において、高いところに浮かんでいるとされる「栄光の聖母」だ。高所から歌われることが一般的であることで、天上からの声として響き、高さという観点から空間が意識されることとなる。

バンダと停滞の組み合わせ

 そして舞台上以外に位置したバンダによる空間性と、音楽の停滞による空間性の両方が組み合わされているのが、交響曲第6番《悲劇的》におけるカウベル(ヘルデングロッケン)の用法だ。特に第1楽章と第4楽章では、明らかに推進力を弱めていった先にカウベルが現れ、しかも舞台裏などから鳴らされることで、“ここではないどこか”――おそらくは天上にある楽園――を象徴しているのだろう。しかし、ご存知のように《悲劇的》では、最終的にはそこにたどり着くことなく、主人公たる英雄は息を引き取ってしまう。

“あの世”的な表現

 空間性を用いた“あの世”的な表現として、もうひとつ注目したいマーラーの作品が《大地の歌》である。最後の第6楽章「告別」では、最終的にアルト独唱が繰り返し「Ewig... ewig...〔永遠(とこしえ)に…永遠に…〕」と歌うことで知られているが、全曲を締めくくる1分ほど(第532~572小節)のあいだ、「ド・ミ・ソ」の和音(とその偶成和音たる変化形)が続くため、和声進行のもつエネルギーがはっきりと弱められている。それにより、こぢんまりとはしているが、ある空間にたどり着き、そこに居続けている感覚が、音によって見事に表現されている(そして「永遠に」という歌詞の通り、音楽が鳴り終わっても、空間性が残り続けるかのような感覚になるのが不思議だ!)。
 音楽による空間表現について、限られた例を挙げながら検討してきたが、ベルリオーズのような先駆者がいるとはいえ、マーラーが音楽にもたらした革新のひとつが「空間性」であったことは、疑いようがない。表層的な効果ではなく、その作品の根源にかかわる部分を、空間性に意識が向くような音楽によって表現したのだから。