東京都交響楽団

スコアの深読み

第3回

仮面を被ったモダニスト
~シベリウスと改訂

 改訂癖のある作曲家といえば、まずはブルックナーやストラヴィンスキーの名が真っ先に挙がるかもしれない。しかし手を加えた作品の数ではなく、興味深い改訂内容という観点から考えると、ジャン・シベリウス(1865~1957)は外せない名前だ。ヴァイオリン協奏曲ニ短調op.47(1903~04/1905改訂)と交響曲第5番変ホ長調op.82(1915/1916、1919改訂)という2つの作品を軸に、改訂作業から何がみえてくるのかを考えてみたい。

ヴァイオリン協奏曲の改訂

 交響詩《フィンランディア》op.26(1900)がかつてほどオーケストラの定期演奏会で演奏されなくなった現在、シベリウス全作品のなかで最大の人気作が何かといえば、ヴァイオリン協奏曲という見立ては過言ではあるまい。この人気は聴衆から支えられているのみならず、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲ニ長調op.35(1878)と並ぶ勝負曲として、コンクールの本選で多くのヴァイオリニストが披露するようになったことともかかわっているだろう。
 しかしながら、この作品が1905年に改訂されず、1904年に完成した状態のままであったのならば、現在ほど演奏されていなかったはずだ。シベリウスの遺族によって限定的に公開された楽譜に基づき、レオニダス・カヴァコスが独奏を担当、オスモ・ヴァンスカ指揮ラハティ交響楽団が初稿を1991年にレコーディングしているのだが、改訂版と比べると熱狂度にどうしても物足りなさを感じる。
 もちろん、それは演奏の質による差ではない(事実、CDに併録された同じ顔ぶれによる改訂版の録音には、そのような問題はない)。あくまでも作品が抱えている要素なのだ。
 では、具体的に何が異なっているのかといえば、真っ先に挙げられるのは第1楽章と第3楽章で大幅に小節数が削られている点だ。例えば第1楽章において、初稿では2回あったカデンツァが改訂版では1回になっている。前述したカヴァコス独奏の録音で演奏時間を比べると、第1楽章で2分40秒ほど、第3楽章で2分弱、改訂版の方が短くなっているのだ。その結果、冗長さが軽減されたのは間違いないが、実は本当に重要なのは小節数が減ったことだけではない。
 第1楽章の初稿を聴いていると、「澄み切った北欧の空」を思わせる空気感を弦楽器が生み出している冒頭部分が終わり、管弦楽の低音部分が加わり始める箇所で、オーケストラが改訂版にはない合いの手を加えるのが、最初に“違和感”として耳に残るはずだ。この高圧的な音形は、何度となく繰り返される重要な主題であるにもかかわらず、改訂版ではまるっきりカット。やっと提示部を締めくくるコデッタ(小結尾部)―しかもその後半部分に登場するくらいまで、減らされているのだ。
 これは映画に喩(たと)えれば、主演(=ヴァイオリン独奏)に匹敵する助演(=高圧的な主題)として撮影を進めていたのに、最初の編集(=初稿)で助演が目立ちすぎて主演の邪魔をしていると判断されてしまったために、2回目の編集(=改訂版)が行われて助演が脇役にまで格下げされてしまったかのようだ。
 こういう喩え話をすると、どうしても『スター・ウォーズ』シリーズのプリクエル・トリロジー(エピソード1~3)において、道化役のジャー・ジャー・ビンクス(アーメド・ベストが声優を務めた)がエピソード1で悪目立ちしすぎたためにファンの顰蹙を買い、エピソード2から3にかけて、どんどんと重要な役目を任されなくなったことを思い出してしまう……。
 しかし、第1楽章のコーダ(終結部)では、この高圧的な主題がオーケストラによるカノンになることで、劇的なクライマックスを生み出す。その部分は改訂版においてもそのままだ。音響としては盛り上がるが、提示部における登場がカットされたため、主題としてそこで展開される意味は薄まっている。
 こうした改訂はベートーヴェン的な作品構築という価値観に基づけばマイナスになるはずなのだが、そうした問題を差し引いても、この改訂が作品普及において吉となったのは、シンプルな1点に集約されるのではないか。――それは、音楽が横へ横へとスムーズに流れるよう、邪魔になる要素を徹底して削った点だ。そうすることで構築性やピリリとした刺激的な響きは弱まってしまったが、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲のように主旋律で音楽を先導していく音楽へと変貌することができたのだ。
シベリウス:ヴァイオリン協奏曲 ニ短調 op.47
【CD】 シベリウス: ヴァイオリン協奏曲 ニ短調 op.47(1903~04年初稿)
ヴァイオリン協奏曲 ニ短調 op.47(1905年改訂版)
レオニダス・カヴァコス(ヴァイオリン)
オスモ・ヴァンスカ指揮 ラハティ交響楽団
〈録音:1991年1月7、10日/1990年11月19~21日〉
[BIS CD 500]

交響曲第5番の改訂

 音楽がスムーズに流れるように施された改訂という点は、交響曲第5番にも共通している。初稿は全4楽章だったのだが、2回の改訂を経た最終稿では第1楽章と第2楽章がひとつに結合され、全3楽章になったという点が外から見た分かりやすい変化だ。
 しかし、最も興味深いのは終楽章である。「A―B―A’―B’―終結部」という形式をもっているのだが、細かい16分音符が連なっていくAの部分はその流れが途切れぬよう、最終稿ではオーケストレーションが補強されている。それに対して、鐘のフレーズを模したBの方は一筋縄ではいかない。最終稿でのBには(B’を含めて)、主題となる鐘とは異なる、もうひとつの対旋律が重なってくるのだが、初稿ではB’にはそれがあるものの、Bには断片的な対旋律しか登場しない。やはり、初稿は音楽が横へと進んでいくスムーズさに欠けているのだ。さらに、初稿のB’では、不協和音的な音の重なりが頻出。かなり先鋭的な響きをもっていたのだが、最終稿ではそれが大幅に軽減されている。
 もちろん、最終稿の方が音楽としてまとまりがよくなり、感情移入しやすくなっているのは、ヴァイオリン協奏曲と同様なのだが、作曲家としてのチャレンジングな要素は確実に改訂のタイミングで減らされているのだ。
 ただ交響曲第5番では、最終稿の方が過激になっているほぼ唯一の箇所がある。
―それは、終楽章の終わりに突如として登場する長い休符だ。初稿では、オーケストラのトゥッティ(全合奏)による和音の合間は弦楽器のトレモロなどで音が埋められているのだが、最終稿にはそれがなくなり、6つの和音が長い休符によって区切られている。独特の緊張感をもったこの終わり方は、シベリウスの交響曲第5番のなかで最も印象的な場面のひとつとなった。

モダニストとしてのシベリウス

 ヴァイオリン協奏曲も交響曲第5番も、ヴァンスカの録音を除けば、初稿をわざわざ演奏しようという音楽家がほぼいないことからも、2作品ともに改訂は成功だったといって間違いない。そこに異論はないのだが、初稿にだけみられる尖った(現代音楽的と言ってもよい)サウンドは、作曲家シベリウスにとって不要なものではなく、作曲家として意欲に満ちた、むしろ上手く自作に盛り込みたい要素だったのではないだろうか? そう思えて仕方ないのは、改訂によって削られた大胆な響きに通じるものが、シベリウスの創作を締めくくる作品のひとつである交響詩《タピオラ》op.112(1926)に現れているからだ。
 《タピオラ》では、単旋律の組み合わせによる対位法ではなく、異なる音色による和音を対位法的に組み合わせることで、大胆な響きでありつつ、単なる不協和音ではない、シベリウスらしい透明感を保つことに成功している。そして何より、そうした大胆な試みを取り入れながら、音楽が横へとスムーズに流れていくことにも成功している。そう捉えてみれば、《タピオラ》という傑作はシベリウス晩年に訪れた突然変異ではない。冒頭から独特の響きを醸し出す交響曲第4番イ短調op.63(1911)のような限られた例をはじめ、ヴァイオリン協奏曲や交響曲第5番の初稿など、人生の折々でチャレンジしてきたシベリウスのモダニストとしての側面が、遂に花開いた作品が《タピオラ》だったのだ。
 同時にそれ以上、先には進めず、作曲家として沈黙が続いてしまった(シベリウスは61歳で《タピオラ》を初演、以後91歳で亡くなるまでの30年間、大規模作品を発表することなく過ごした)のも、《タピオラ》でそれまでの試みが成功してしまったが故なのかもしれない。
シベリウス:交響曲第5番変ホ長調 op.82
【CD】 シベリウス: 交響曲第5番変ホ長調 op.82(1915年初稿)
交響詩《エン・サガ(伝説)》op.9(1892年初稿)
オスモ・ヴァンスカ指揮 ラハティ交響楽団
〈録音:1995年5月11~12日/1995年5月10日〉
[BIS CD 800]