東京都交響楽団

スコアの深読み

第4回

究極のポリフォニー
~ポスト・マーラーとしてのアイヴズ

マーラーとアイヴズ

 グスタフ・マーラー(1860~1911)は40代後半からアメリカへ活動範囲を広げ、メトロポリタン歌劇場やニューヨーク・フィルでも指揮者として活躍した。そして、この新天地でアメリカ人作曲家の作品に出会ったマーラーは、エドワード・マクダウェル(1860~1908)のピアノ協奏曲第2番(1890)などを指揮している。レパートリーを更に広げるつもりであったのだろう。他にも楽譜を買い込んでおり、そのなかのひとつにチャールズ・アイヴズ(1874~1954)が作曲した交響曲第3番《キャンプ・ミーティング》(1904/改訂1908~11頃)があった。
 アイヴズはイェール大学で作曲の専門教育を修めた後、1898年から30年ほど保険の仕事をしながら、余暇に創作を続けていく(とはいえ、1908年に結婚するまでは教会オルガニストとしても働いていたため、アマチュアの音楽家という認識は必ずしも正しくない)。
 1905年、勤務していた保険会社(上層部にアイヴズの親族2名が関わっていた)が不祥事で解散に追い込まれると、最終的にアイヴズは自ら会社を立ち上げる。金儲けではなく、社会の相互扶助となる生命保険を普及していくために、代理店を広く募集。不祥事が起こらぬよう、また誰でも適切な説明ができるように、営業のガイドラインを細かく作り込んだり、営業マン向けの授業を行ったりしている。他にも、適切な生命保険の金額を計算する方法を考案したり、特約のセット販売をしたりと、一家の大黒柱が亡くなってしまった際、人々が生活に困らぬ仕組みづくりに尽力した。
 こうした新しい試みが成功したおかげで、アイヴズは経済的に潤うようになったものの、作曲家としては無名のまま。写譜屋に依頼して筆写譜をつくり、プロの音楽家に譜読みしてもらったり、お金を払って試奏してもらったりもしていたようだが、評価されることはなかった。交響曲第3番《キャンプ・ミーティング》の楽譜は、1911年に筆写譜が2部つくられ、アーサー・W・タムズが経営するニューヨークの出版社(写譜屋を併設)で1部だけ販売された。これを偶然にも購入したのがマーラーだったというのだから、驚きである。
 しかし、同年4月8日にニューヨークを発ってウィーンへ向かったマーラーは、5月18日に50歳でこの世を去ってしまう。こうして、アイヴズは作曲家として注目を集めるチャンスを失ってしまった。アイヴズ作品のどういった部分をマーラーが評価していたのか、残された資料の範囲では分からず、推測の域を出ない。
 可能性として考えられるのは、両者の作品に共通する、複雑な対位法による新たな音響の創造や、既存の音楽から旋律を引用する手法あたりだろうか。
 もう少し具体例に踏み込んでみよう。アイヴズの交響曲第3番《キャンプ・ミーティング》は第1楽章〈懐かしき仲間の集い〉アンダンテ・マエストーソ、第2楽章〈子どもの日〉アレグロ、第3楽章〈コンムニオン〉ラルゴ、から成る。この第2楽章と、マーラーの交響曲第9番(1909~10)の第2楽章には、素朴な楽想が異様な姿へと変貌していくという共通点が見出せる。また、マーラーの交響曲第9番や第10番(1910/未完)のような、この時代にまだまだ珍しかった遅いテンポによる終楽章という共通点、さらには現世から逸脱しているかのような世界観を、マーラーは《キャンプ・ミーティング》に見出したのかもしれない。
 

両者が知り得なかった共通点

 アイヴズとマーラー……現世での邂逅はここまで語った通りだが、両者が絶対に知りようがなかった共通点が存在する。それは、若き日に形成されたポリフォニー(多声音楽)の感覚だ。
 アイヴズの父ジョージ・E・アイヴズ(1845~94)は、軍楽隊の元バンド・マスター(南北戦争〔1864~65〕で北軍最年少の隊長だった!)で、退役後も指揮者として活動している。広場で父がマーチング・バンドを指揮しているのを聴いたアイヴズは、同時に、遠くから聴こえる別の楽団の演奏との重なりも楽しんだというのだ。そして、父が息子に作曲を教える際には、複数の調性を重ねる複調や多調を推奨。1891年頃の作品とされている、オルガンのための《アメリカ変奏曲》では2箇所で実際に複調(ヘ長調と変ニ長調、変イ長調とヘ長調)が用いられている。
 そんな父が1894年に亡くなり、同時期からイェール大学で保守的な作風で知られるホレイショ・パーカー(1863~1919)に師事する。以降の作品ではロマン派的なハーモニー感覚のもとで、対位法を駆使したポリフォニックな作風でこそあるものの、複調・多調を駆使した不協和な響きは影を潜めてしまう。交響曲第1番(1898~1902/改訂1907~08)、第2番(1899~1902/改訂1907~09、1950)はこうした時期にあたる作品である。―というと、第2番のラストで鳴り響く不協和音はどうなのか? と疑問を持たれる方もいるだろう。どうやら、これは後年になってから(Grove Music Onlineでは1950年、初演直前に加えられたとされている)の改訂であるようだ。
 《キャンプ・ミーティング》の原形が作られた1904年頃から、アイヴズの音楽は複雑な響きが現れるようになり、1905年には複数のマーチング・バンドが入り乱れるような音響を取り入れた行進曲《カントリー・バンド》(1905/改訂1910~11、1914)を手掛けることで、いよいよ父から学んだ世界観へと戻り始め、我々がイメージするアイヴズらしい作風が追求されていくことになる。
 実は、こうした全く異なる音楽が同時に鳴り響くというアイデアは、アイヴズに先立って、若き日のマーラーが試みていたことでもあった。交響曲第1番《巨人》(1884~88/改訂1893~96)よりも前に作曲されたカンタータ《嘆きの歌》(1878~80/改訂1892~93、1898~99)の第2部〈辻音楽師〉において、マーラーは、オーケストラが4分の3拍子で嬰ハ長調の音楽を演奏しているところに、小編成の管打楽器による4分の4拍子のハ長調(オーケストラより半音下!)の音楽を重ねているのだ。
 この《嘆きの歌》は、ブラームスらが審査員を務める「ベートーヴェン賞」で落選したことが知られているが、上記の前衛的な表現が評価されなかった理由のひとつになったことは容易に想像できる。後年の改訂でマーラー自身がこの部分をカットしてしまったため、1969年に初稿の楽譜が遺族からイェール大学図書館へ譲渡されるまで、こうした複調の試みは知られていなかった。
 なぜ、マーラーはこのような試みを行ったのか。解き明かすためのヒントが、友人のナターリエ・バウアー=レヒナー(1858~1921)の回想録に残されている。1900年の夏、友人たちと訪れたお祭りで、軍楽隊、合唱団、手回しオルガンなど、様々な音楽が無関係にあちこちから聴こえてくると、マーラーはこう語ったのだという。
 聴いてごらん! これこそポリフォニーだ、僕はこういうところからポリフォニーを手に入れているんだ!―すでに子どもの頃、イーグラウの森で奇妙に僕をとらえ、僕の心に刻み込まれたのは、こうしたものだった。こうした騒音として響こうと、幾重にも混じり合った鳥たちの歌や嵐のうなり声、波のざわめき、火がパチパチ燃える音だろうと同じことだからだ。ちょうどこんな風に、各テーマはまったく違った方向から聞こえてこなければならないし、リズムやメロディもまったく違ったものでなければならない(それ以外のものは、単に声部がたくさんあるだけか、偽装されたホモフォニーに過ぎない)。
 〔訳/村井翔〕

 まさに、アイヴズが複数のマーチング・バンドを同時に聴いたのと同じような体験を、マーラーもしており、両者ともに創作へ取り入れていたのだ。お互いにそのことは知りようがなかったはずなのだが、この共通性を知ってしまうと、マーラーがアイヴズに興味を抱いたのは自然な成り行きに思えて仕方ない。
 アイヴズが生まれる(1874年10月20日)1ヵ月と1週間前、ウィーンではアルノルト・シェーンベルクが誕生(1874年9月13日)している。言わずもがな、音楽史ではポスト・マーラーに位置づけられている作曲家だ。彼もまた若い頃にロマン派的なスタイルで基礎を築き、マーラーへと接近しているが、最終的には「12音技法」というロマン派の過剰さに自動制限がかかるルールを自らに課している。そのためマーラーが理想とした、全く異なるものが多様に絡み合うポリフォニーとは、全然違う音楽へと行き着いた。
 それに対し、アイヴズは交響曲第4番(1912~18/改訂1921~25)の第2楽章〈コメディ〉アレグレットで、聴覚と知覚の限界に迫るポリフォニーを実現。それをさらに推し進めた作品として、総計200名以上からなる7つのオーケストラと500名の合唱団が、異なる山や丘に配置される《ユニヴァース交響曲》(1915~28)を計画したが、これはさすがに完成させることができなかった。マーラーが長生きして、この構想をアイヴズから聞かされたとしたら、きっと大きな刺激を受けたはずだ。前述の発言を思えば、自作にさえ、そういう要素を取り入れたかもしれない。そう考えてみれば、ポスト・マーラーの座はアイヴズにこそふさわしい。
アイヴズ:オルガンのための《アメリカ変奏曲》 第142~145小節
 英国国歌《ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン》を主題としながら、なぜか《アメリカ変奏曲》と名付けられたこの曲は、「序奏~主題~5つの変奏」からなる12分ほどの作品。
 第2変奏と第3変奏の間に1番目のインタールード(間奏曲)(8小節)があり、右手がヘ長調、左手とペダルは変ニ長調の複調になっている。上記は第4変奏と第5変奏(=コーダ)の間に置かれた2番目のインタールード(4小節)で、右手が変イ長調、左手とペダルはヘ長調の複調。インタールードは2つとも「アド・リブ(≒弾いても弾かなくてもよい)」の指示があり、作曲当時この部分が新奇な響きに聴こえたことを思わせる。