東京都交響楽団

スコアの深読み

第8回

ラフマニノフとアメリカ音楽
~ジャズよりもグローフェの影響か?

ラフマニノフ、アメリカへ

  1917年、ロシア革命の混乱を避けて祖国ロシアを離れたセルゲイ・ラフマニノフ(1873~1943)とその家族。まずは北欧に拠点を移したが生活は苦しく、ロンドンでの演奏活動を目論むも仕事の目処が立たなかった。そんな折、アメリカ合衆国から高額の演奏オファー(ピアニストとして)が舞い込んだのだが、1909年に訪れた際の印象があまり良くなかったことや、レパートリー的に依頼内容をこなせる自信がなかったことから断ってしまう。しかしながら仕事の可能性を感じたラフマニノフは、家族とともにアメリカ行きを決意。1918年11月10日、ニューヨークに再び足を踏み入れた。以後、アメリカから距離をおいた時期もあったが、この地で亡くなるまで名ピアニストとして名声を博すこととなる。
 

ジャズの登場

  9年ぶりに訪れたアメリカでは、音楽に大きな変化が起きようとしていた。ジャズの登場である。誕生の地とされるニューオリンズで1900年前後に生まれたと考えられているが、実際の録音として残っているのは、1917年に白人だけで構成された「オリジナル・ディキシーランド・ジャ ・バンド(Original Dixieland Jass Band)」によるレコーディングが最初とされる。録音を通してアメリカ全土のみならず、ヨーロッパにもジャズは紹介され、広まってゆく。
  例えば、チェコのエルヴィン・シュルホフ(1894~1942)は1919年以降、ジャズのリズムを取り入れた作品を数多く手掛けているし、フランス6人組のダリウス・ミヨー(1892~1974)は1920年にロンドンでジャズ・バンドの演奏を聴き、すぐに自作のピアノ曲に取り入れている。アメリカ国内でいえば、アーロン・コープランド(1900~90)が1921年に「ジャジー(ジャズ風)」と題したピアノ曲を書いている。なお、ジャズとクラシックを結びつけたイメージの強いジョージ・ガーシュウィン(1898~1937)だが、彼が明確にジャズを取り入れるのは1922年のジャズ・オペラ『ブルー・マンデイ』以降のことである。
 

《ラプソディ・イン・ブルー》初演に立ち会う

  こうした変化が起きていた時代にラフマニノフはアメリカへとやってきた。滞在から1年ほどを経た1919年10月に雑誌のインタビューで彼は、アメリカのオーケストラと審美眼のある聴衆が世界最高レベルであることを称賛するも、当時のアメリカ音楽については懐疑的な立場をとっていた(本題からは逸れるが、この時点では「アメリカ先住民や黒人の作曲家による優れた作品が生まれることで、アメリカ独自の音楽が生まれる」という意見を語っているのが興味深い)。
  ラフマニノフがアメリカ音楽への見解を変えたのは、当時「キング・オブ・ジャズ」と持て囃されて時代の寵児となっていたポール・ホワイトマン(1890~1967)と彼の楽団に魅せられるようになってからだ。いつ頃から聴き出したのか定かではないが、少なくとも1924年2月12日にはホワイトマン楽団がガーシュウィン《ラプソディ・イン・ブルー》を初演したコンサートにラフマニノフは聴衆として立ち会っており、翌年に友人宛の手紙でホワイトマン楽団を絶賛している。一部抜粋してみよう。

  「この規模としては、私がこれまで聴いたなかで最も見事なオーケストラを彼は持っている」「音楽家からみてこのオーケストラに魅力と興味を覚えるのは、疑う余地がないほど新しいということだ。つまり、独特かつ目新しい手法で素材を拡大、発展させており、私の心をすっかり捉えてしまった。これは確かに正真正銘のアメリカ音楽と呼べるかもしれない」「私の友人メトネルは、ホワイトマン氏のことを音楽における最高のストーリーテラーと呼んでいる。ホワイトマン氏の小品こそが、まさにストーリーテリングである。非常に優れた鋭いアネクドートだ」

  アネクドートは日本語で「逸話」と訳されることが多いが、ロシア語では「(滑稽な)小話」というニュアンスが強い。おそらくラフマニノフは、(SPレコードの片面に1曲が収まる)ホワイトマン楽団の短い楽曲を、自作の練習曲集《音の絵》のなかに含まれるような物語性をもった音楽として受け取り、評価したのではないだろうか。

グローフェ作品との出会い

  ちなみにこの時点のラフマニノフが最も評価するホワイトマン楽団の楽曲は、1924年6月に録音された「ミネトンカの湖畔にて(By the Waters of Minnetonka)」だった。これはアメリカ先住民の音楽をもとに作曲をしていたサーロー・リューランス(1878~1963)の楽曲で、原曲はラブソングなのだが、ホワイトマン楽団の中心的なアレンジャーだったファーディ・グローフェ(1892~1972)の手によってフォックストロット風のダンスチューンに編曲されている。
  ここで察しのいい方は、ひとつおかしなことに気づいたかもしれない。ラフマニノフ(とメトネル)はホワイトマンの音楽を絶賛しているが、そのサウンドを生み出したのは他のアレンジャーなのだということに。一応、誤解のないように触れておけば、ホワイトマン自身による作曲や編曲が存在しないわけではない。しかし、作曲については基本的に他の作曲家と連名でクレジットされていることが多く、編曲もホワイトマン以外が手掛けたものの方が多いのだ。つまりは、ラフマニノフは確かにホワイトマンがリーダーを務めるオーケストラの演奏にも魅せられていたが、本当に彼が惹かれたのはグローフェのアレンジだったのである。
  実際、1932年10月9日にはラフマニノフの前奏曲《鐘》とニコライ・リムスキー=コルサコフ(1844~1908)のオペラ『金鶏』第2幕のアリア「太陽賛歌」をグローフェが編曲したヴァージョンを、ラフマニノフ自身が生で聴く機会があったのだが、彼はこのアレンジを大絶賛。自分だけでなく、リムスキー=コルサコフが生きていたら称賛しただろうとまで語り、この年の11月4日にはグローフェ作曲の組曲《グランド・キャニオン》を聴きに行っている(現在、一般的に演奏されているフル・オーケストラ版ではなく、ホワイトマン楽団による演奏)。先ほど引用した「独特かつ目新しい手法で素材を拡大、発展」というホワイトマンへの絶賛ポイントも、グローフェの作風そのものであり、それこそ組曲《グランド・キャニオン》の各曲でもひとつの素材を執拗に繰り返しながら、飽きさせないように聴かせる様々な工夫が凝らされている。

《交響的舞曲》と組曲《グランド・キャニオン》

  グローフェから受けたこうした刺激がラフマニノフ作品に反映された可能性があるのが、編曲を除けば彼の最後の作品となった《交響的舞曲》(1940)である。
  まずは第1楽章(ノン・アレグロ)をみていこう。旋律素材の大部分は三和音のアルペッジョによって作られていくが、これがグローフェの「独特かつ目新しい手法で素材を拡大、発展」から示唆を受けた結果であるかもしれない。そして最初にffで提示される決然とした主題は、ラフマニノフの伝記を記したマックス・ハリソン(1910~80)が指摘しているように、リムスキー=コルサコフのアリア「太陽賛歌」に登場する半音階的なモティーフと関連している。
  中間部で用いられるアルトサクソフォンは、ホワイトマン楽団で聴き慣れた音色として取り入れたとも考えられるが、組曲《グランド・キャニオン》第4曲「日没」でヴィブラート多めで歌われる旋律がインスピレーションを与えた可能性もある。
  そして第2楽章(アンダンテ・コン・モート/ワルツのテンポで)については、冒頭で金管楽器群によって奏される和音の交代が、組曲《グランド・キャニオン》第5曲「豪雨」における「嵐の接近(Approach of the Storm)」と書かれたセクションに登場する全音音階的な和音の交代からインスパイアされた可能性があるだろう。「豪雨」にはワルツのリズムこそないが、半音階的に上下するフレーズは《交響的舞曲》の第2楽章を想起させる。
  以上、確たる証拠はないのだが、偶然の一致としてはあまりに類似する要素が多くはないだろうか。ロシア時代に書かれた作品とは明らかに作風が変わったことは誰の耳にも明らかでありながら、それがどのような影響によるものなのか、霧に包まれたままなのが現状だ。ジャズというよりも、グローフェという意外な作曲家からの影響を考察してみることで、ラフマニノフの新たな側面が見えるようになるかもしれない。
ラフマニノフ:交響的舞曲op.45 第1楽章 第98~102小節

ラフマニノフ:交響的舞曲op.45 第1楽章 第98~102小節
*第1楽章中間部、クラリネット1本の分散和音というシンプルな伴奏にのって、アルトサクソフォンがソロで旋律を歌い始める。ラフマニノフは全作品の中で唯一、《交響的舞曲》でサクソフォンを用いた。アメリカ音楽の影響を感じさせる楽器用法だが、その旋律は愁いを帯び、祖国ロシアへの深い想いを感じさせる。