東京都交響楽団

スコアの深読み

第9回

ショスタコーヴィチとブリテン
~友情と交流から生まれた傑作群

ショスタコーヴィチ、ブリテンと出会う

  1960年6月、ソヴィエト当局から共産党員になるよう強制されたドミトリー・ショスタコーヴィチ(1906~75)は精神的に追い詰められていた。目先の仕事が手につかなくなり、同年7月12日からの3日間で―自分への追悼曲として―弦楽四重奏曲第8番(1960)を書き上げている。そんな人生のどん底から2ヵ月後、ショスタコーヴィチはレニングラード・フィルの演奏を聴くために訪れたロンドンで、ベンジャミン・ブリテン(1913~76)と初めて顔を合わせ、徐々に交流を深めていく。
 

相互の影響

  こうして1960年代になってショスタコーヴィチはブリテンの影響を受けるようになったのだが、実に興味深いことにショスタコーヴィチが1947~48年に作曲したヴァイオリン協奏曲第1番は、ブリテンが1938~39年に作曲(そして後に何度も改訂)したヴァイオリン協奏曲と多くの共通性をもっているのだ。特に分かりやすいのは、カデンツァが実質的に楽章間に置かれている点(ブリテンは第2楽章の終わり、ショスタコーヴィチは第3楽章の終わりにカデンツァが置かれ、どちらも次の楽章へとアタッカで繋がる)。そして第2楽章がスケルツォ、第3楽章がパッサカリアになっている点だろう。ブリテンのスケルツォは、明らかにプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第1番から影響を受けているが、パッサカリアにはショスタコーヴィチを思わせる瞬間が何度か訪れる。
  それもそのはず、ブリテン自身が1966年に開催されたショスタコーヴィチの生誕60周年を祝う記念式典の場で明らかにしたように、1936年3月にロンドンで上演されたオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』(1932)を聴いて、ブリテンはショスタコーヴィチに魅せられていたのだ。つまり、ブリテンのヴァイオリン協奏曲(および同時期のピアノ協奏曲)は、『マクベス夫人』第2幕に登場するパッサカリアの影響を受けて作曲されたものだったのである。ちなみにこの前後、1928~38年のブリテンの日記には、ショスタコーヴィチのオペラ『鼻』(1928)の組曲、交響曲第1番(1925)、ピアノ協奏曲(第1番)(1933)についての記載があるとのこと。ブリテンが1936年に作曲した短い歌曲「退役軍人のための子守唄」の付点リズムによる行進曲は、ショスタコーヴィチの交響曲第1番第1楽章を想起させる。
  だがブリテンは、前述した1966年までショスタコーヴィチからの影響を公にはしてこなかった。その理由について、ロシア音楽の専門家であるキャメロン・パイクは著書『Benjamin Britten and Russia』(The Boydell Press, 2016)で「ブリテンは当初、ショスタコーヴィチを19世紀の伝統を受け継ぐドラマティックで大規模な交響曲の作曲家であるとみなしていた」からだと説明している。全作品中、声楽を含む作品の割合が圧倒的に多いブリテンが、交響曲分野で例外的に高く評価していたのはグスタフ・マーラーで、それ以外については評価を留保したままだったのである(なぜ、大規模交響曲のなかでマーラーだけを高く評価していたかといえば、やはり声楽的要素を含む作品の多さからであろう)。
 

本格的な友情と交流

  ところが1963年に大きな変化が生じた。この年の夏、《戦争レクイエム》(1961~62)の楽譜とレコードをブリテン自身から贈られたショスタコーヴィチは「君は偉大な作曲家だが、私はとるに足りない作曲家だ」と賛辞を伝えたのだ。これはおそらく前年冬に初演された自作の交響曲第13番《バービイ・ヤール》(1962)を意識した上でのコメントだったと考えられる。編成は違うが、独唱者・合唱と管弦楽による大規模な反戦作品という偶然の共通要素は、共感すると同時に比較せずにはいられなかったと考えるのが自然だろう。いずれにせよ、共時的な関係の強い《戦争レクイエム》と《バービイ・ヤール》によって、2人の作曲家の本格的な友情と交流が始まったのだといえる。
  時系列は多少前後するがショスタコーヴィチにとって、12音技法の主題と変奏が全編に盛り込まれたブリテンのオペラ『ねじの回転』を1962年に鑑賞した経験が、後期作品に12音技法的な要素が加わるきっかけのひとつになった。あるいは1966年にブリテンの歌曲集《ミケランジェロの7つのソネット》(1940)をピーター・ピアーズ(1910~86)が歌うのを聴いた経験から、ショスタコーヴィチの《ミケランジェロの詩による組曲》(1974)が生まれたとされている。ショスタコーヴィチの生涯最後の10年に歌曲創作の3分の1が集中しているのも、ブリテンとの交流で生まれた刺激によるものかもしれない。
  一方のブリテンは、管弦楽と室内楽の創作が1950年代には(舞台作品からの派生作を除けば)停滞していたのだが、ショスタコーヴィチと交流した1960年代には数こそ多くないが傑作を遺した。その代表格といえるのがムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(1927~2007)のために書かれた、チェロと管弦楽のための交響曲(1963~64)―通称《チェロ交響曲》だ。ブリテンにとって協奏曲は1930年代で終わりを告げたジャンルだったのだが(ただし、この頃の作品を1940~50年代に何度も改訂している)、《チェロ交響曲》が生まれるインスピレーションのひとつとなったのがロストロポーヴィチの演奏するショスタコーヴィチのチェロ協奏曲第1番(1959)だったことは疑いようがない。そして《チェロ交響曲》のモスクワ初演を、楽譜を見ながら聴いたショスタコーヴィチは、ブリテンの室内楽的な書法を自作のチェロ協奏曲第2番(1966)に取り入れた。

打楽器群の独特な用法

  こうした相互作用の結果、ショスタコーヴィチとブリテンは共に最晩年の作品で、打楽器群の独特な用法にたどり着く。ショスタコーヴィチでいえば前述したチェロ協奏曲第2番のラストに加え、交響曲第14番(1969)や交響曲第15番(1971)、ブリテンでいえば児童合唱のためのバラード《少年十字軍》(1969)、オペラでは『オーウェン・ウィングレイヴ』(1969~70)や『ヴェニスに死す』(1971~73/73~74)あたりが代表的な例といえる。交響曲第14番と《少年十字軍》、『オーウェン・ウィングレイヴ』での打楽器は非常に冷淡でドライであり、悲劇や暴力の象徴として響く。それに対して交響曲第15番と『ヴェニスに死す』では人生の深淵を覗き込むような、不思議な余韻をもったサウンドとして鳴り響く。

音楽による鼓舞

  前衛的な音楽が世界中を席巻していた1960~70年代、時代遅れの作曲家と批判されることも少なくなかった2人の作曲家が出会い、互いを音楽によって鼓舞しあった。その結果、どちらか一方が搾取されることなく両者ともに傑作を生み出すことができたという関係は、音楽史を広く見渡しても稀だろう。双方ともに健康上の問題を抱えていたにもかからず、1971~72年にモスクワとオールドバラ(英国南東部の海辺の街/ブリテンが1948年に創設した音楽祭が今も続いている)、互いの拠点で計4回も会って創作途中の作品を見せたりするほどの蜜月関係にあったのだから。
  ちなみにブリテンは教会上演用寓話(小編成のオペラ)『放蕩息子』(1967~68)をショスタコーヴィチに、ショスタコーヴィチは交響曲第14番をブリテンに献呈している。後者の美しく叙情的な第9楽章「おお、デルヴィーク、デルヴィーク!」では「悪人と愚者のなかにいる才人にとって何が慰めとなるのか?」というロシアの詩人キュヘルベケルの詩が歌われる。これはショスタコーヴィチによるブリテンへの呼びかけであり、そのことをブリテン自身も認めていた。2人の友情を象徴する楽曲として聴くと、涙なしには聴けない音楽だ。

作風の違い

  ここまで影響関係(言い換えれば共通性)を主に語ってきたが、2人の作曲家の違いはどこにあるのか? それを実感するのにうってつけの作品として、ショスタコーヴィチの交響曲第11番《1905年》(1956~57)の第3楽章「永遠の記憶」と、ブリテンの《ロシアの葬送》(1936)を最後に挙げたい。どちらもロシアの革命歌「同志は倒れぬ」が引用されて主旋律となっているのだが、その聴かせ方、構成の仕方の違いにそれぞれの個性が端的に現れている。なお《ロシアの葬送》は金管アンサンブルと打楽器による作品だが、軍楽調になる中間部以外は合唱をイメージしながら聴くと、声楽曲を得意としたブリテンの他の作品との繋がりがご理解いただけるはずだ。
ショスタコーヴィチ:交響曲第4番 ブリテン:ロシアの葬送
【CD】
ショスタコーヴィチ:交響曲第4番
ブリテン:ロシアの葬送
サイモン・ラトル指揮 バーミンガム市交響楽団
〈録音:1994年7月、12月〉
[ワーナー・クラシックス WPCS51112]
ショスタコーヴィチ:交響曲第11番《1905年》
【CD】
ショスタコーヴィチ:交響曲第11番《1905年》
ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ指揮 ロンドン交響楽団
〈録音:2003年3月〉
[LSO Live LSO535] SACDハイブリッド
*都響は《ロシアの葬送》と交響曲第11番《1905年》を組み合わせた演奏会を2015年6月29日に行った(オレグ・カエターニ指揮A定期/東京文化会館)。ともにロシアの革命歌「同志は倒れぬ」を引用しているが、《ロシアの葬送》はトロンボーンが先導し周囲が唱和してゆく構成で、英国の合唱音楽の伝統を感じさせる。《1905年》第3楽章「永遠の記憶」は、低弦の切り詰められた伴奏に乗って、ヴィオラが和声づけもなく1本の旋律をしめやかに歌ってゆく、厳粛な追悼歌。