スコアの深読み


第19回
交響曲はドイツのもの?~18~19世紀フランスの交響曲
「忘れられた」フランスの交響曲
第二帝政下〔1851~70年〕、パリはオペラ都市であるばかりでなくコンサート都市でもあり、オーケストラや室内楽の演奏団体はパリで活発な活動を行っていた。それらの演奏団体のレパートリーの基本はウィーン古典派の「定番」作品であったが、そればかりでなく、メンデルスゾーンやシューマン、リストやヴァーグナーなど、十九世紀のドイツの代表的な作曲家の作品も取り上げられていた。つまり、聴衆は新しい音楽そのものに拒否反応を示していたわけではなかったのだが、「器楽曲はドイツの作曲家の領分」という考え方が根強かったことから、フランス人の作曲家が管弦楽や室内楽の作品を発表する機会はほとんどなかった。
近代フランス音楽史を専門とする音楽学者・井上さつきは、今谷和徳との共著『フランス音楽史』(春秋社、2010年)のなかでこう著している。その上で、この状況を変えていく先駆者となったのがカミーユ・サン=サーンス(1835~1921)であり、普仏戦争(1870~71)でのフランス軍の敗北をきっかけにして、サン=サーンスを中心に設立された「国民音楽協会」が管弦楽や室内楽作品を発表する場を作っていったとされている。
だがしかし、音楽学者・大崎滋生の著書『文化としてのシンフォニーⅠ~18世紀から19世紀中頃まで』(平凡社、2005年)と『文化としてのシンフォニーⅡ~19世紀中頃から世紀末まで』(平凡社、2008年)には、「国民音楽協会」以前に交響曲を手掛けた(サン=サーンス以外の)フランスの作曲家として多くの作曲家名が挙がっており、例えば「18世紀にはフランスで約1200曲のシンフォニー作品が書かれた」とも記されている〔音楽学者バリー・ブルック(1918~97)の調査研究に基づく数。ただし、このなかには協奏交響曲も含まれている〕。
こうした認識の差はどこから生まれているのか? 『文化としてのシンフォニー』で挙げられているサン=サーンス以前に交響曲(フランス語でサンフォニー)を残したフランス人作曲家の名を、『フランス音楽史』の索引でひいてみると、フランソワ=ジョセフ・ゴセックのように交響曲を書いたことに触れられている作曲家もいるが、名前が挙がっていても交響曲創作には触れられていなかったり(例:アンリ・ルベル、フェリシアン・ダヴィッド)、そもそも一度も名前が挙げられていない作曲家も少なくない(例:ジョルジュ・オンスロー、ルイーズ・ファランク)。
これほどまでにサン=サーンス以前の交響曲が軽視されている状況を踏まえ、今回はフランスにおける19世紀までの交響曲の歴史を概観し直してみよう。
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近代フランス音楽史を専門とする音楽学者・井上さつきは、今谷和徳との共著『フランス音楽史』(春秋社、2010年)のなかでこう著している。その上で、この状況を変えていく先駆者となったのがカミーユ・サン=サーンス(1835~1921)であり、普仏戦争(1870~71)でのフランス軍の敗北をきっかけにして、サン=サーンスを中心に設立された「国民音楽協会」が管弦楽や室内楽作品を発表する場を作っていったとされている。
だがしかし、音楽学者・大崎滋生の著書『文化としてのシンフォニーⅠ~18世紀から19世紀中頃まで』(平凡社、2005年)と『文化としてのシンフォニーⅡ~19世紀中頃から世紀末まで』(平凡社、2008年)には、「国民音楽協会」以前に交響曲を手掛けた(サン=サーンス以外の)フランスの作曲家として多くの作曲家名が挙がっており、例えば「18世紀にはフランスで約1200曲のシンフォニー作品が書かれた」とも記されている〔音楽学者バリー・ブルック(1918~97)の調査研究に基づく数。ただし、このなかには協奏交響曲も含まれている〕。
こうした認識の差はどこから生まれているのか? 『文化としてのシンフォニー』で挙げられているサン=サーンス以前に交響曲(フランス語でサンフォニー)を残したフランス人作曲家の名を、『フランス音楽史』の索引でひいてみると、フランソワ=ジョセフ・ゴセックのように交響曲を書いたことに触れられている作曲家もいるが、名前が挙がっていても交響曲創作には触れられていなかったり(例:アンリ・ルベル、フェリシアン・ダヴィッド)、そもそも一度も名前が挙げられていない作曲家も少なくない(例:ジョルジュ・オンスロー、ルイーズ・ファランク)。
これほどまでにサン=サーンス以前の交響曲が軽視されている状況を踏まえ、今回はフランスにおける19世紀までの交響曲の歴史を概観し直してみよう。
18~19世紀のフランスの交響曲と演奏会
『文化としてのシンフォニー』において、自ら交響曲を書くフランス人作曲家の嚆矢に位置づけられているのが、ルイ15世の宮廷で活躍したヴァイオリニストのルイ=ガブリエル・ギユマン(1705~1770)である。彼が作曲した「イタリア趣味による3声の、6つの交響曲」は1740年に出版されているが、タイトルからも分かるようにG. B. サンマルティーニのようなイタリアでの初期交響曲(シンフォニア)からの影響下で書かれたものであろう。
古典派に属するゴセック(1734~1829)は、現在ではベルギーにあたる地域に生まれたが、幼い頃からフランスで音楽教育を受けて、1750年代後半から既に交響曲を作曲し始めている(ちなみにパリ音楽院の創設にも深く関わった)。ヨーゼフ・ハイドン(1732~1809)と同世代でありながら、ベートーヴェン(1770~1827)の交響曲第5番(1807)から影響を受けたと考えられている作品―「17声の交響曲」(1809)まで遺しているのが興味深い。
また西洋音楽史における、最初期のアフリカ系作曲家として知られるフランス人のジョゼフ・ブローニュ・サン=ジョルジュ(1745~99)はゴセックに作曲を師事。交響曲のみならず、18世紀後半にパリを中心に短期間だけ流行した、複数の独奏者を要する協奏交響曲(サンフォニー・コンセルタント)を多数手掛けているが、こちらは基本的に協奏曲の変形として捉えるべきだろう(ただし、20世紀に書かれた協奏交響曲はその限りではない)。
さて18世紀後半のパリといえば、やはりフランス革命(1789)なしに語れない。1725年に創設されたコンセール・スピリチュアル(演奏会を定期的に行った声楽家&器楽奏者の組織)は、モーツァルトが交響曲第31番《パリ》を提供したことで知られる。1769年にゴセックが創設し、後にサン=ジョルジュが継承したコンセール・デザマトゥール(アマチュア演奏会)は、1781年にコンセール・ド・ラ・ロージュ・オランピクへ活動が引き継がれ、ハイドンがパリ交響曲(第82~87番)を提供したことで知られる。この2つの団体はオペラ以外の管弦楽曲を盛んに演奏していたが、どちらも革命の影響で解散してしまう。
王政復古の時代(1814~30)にコンセール・スピリチュアルは復活。だが19世紀のフランスでより大きな存在感を放ったのはパリ音楽院のオーケストラだ。当初は学生による練習が主目的であったが、1828年にコンサート協会が設立されてからは卒業生も演奏に加わった「パリ音楽院演奏会」が開催されるようになった。
ところが1870年までのプログラムを総ざらいしてみると、ドイツ・オーストリアの作曲家による作品が全体の75%を占めていたのだという〔詳細は、吉成順『〈クラシック〉と〈ポピュラー〉―公開演奏会と近代音楽文化の成立―』(アルテスパブリッシング、2014年)やウィリアム・ウェーバー、松田健訳『音楽テイストの大転換 ハイドンからブラームスまでの演奏会プログラム』(法政大学出版局、2016年)を参照〕。なかでもベートーヴェンの演奏頻度は全体の40%以上と群を抜いており、ドイツ語圏よりも頻繁にベートーヴェンの交響曲が演奏されていた。反対にプログラミングされることが極度に少なかったのが、存命中のフランス人作曲家の新作である。こうして本稿冒頭で『フランス音楽史』から引用した状況が生まれたのだった。
古典派に属するゴセック(1734~1829)は、現在ではベルギーにあたる地域に生まれたが、幼い頃からフランスで音楽教育を受けて、1750年代後半から既に交響曲を作曲し始めている(ちなみにパリ音楽院の創設にも深く関わった)。ヨーゼフ・ハイドン(1732~1809)と同世代でありながら、ベートーヴェン(1770~1827)の交響曲第5番(1807)から影響を受けたと考えられている作品―「17声の交響曲」(1809)まで遺しているのが興味深い。
また西洋音楽史における、最初期のアフリカ系作曲家として知られるフランス人のジョゼフ・ブローニュ・サン=ジョルジュ(1745~99)はゴセックに作曲を師事。交響曲のみならず、18世紀後半にパリを中心に短期間だけ流行した、複数の独奏者を要する協奏交響曲(サンフォニー・コンセルタント)を多数手掛けているが、こちらは基本的に協奏曲の変形として捉えるべきだろう(ただし、20世紀に書かれた協奏交響曲はその限りではない)。
さて18世紀後半のパリといえば、やはりフランス革命(1789)なしに語れない。1725年に創設されたコンセール・スピリチュアル(演奏会を定期的に行った声楽家&器楽奏者の組織)は、モーツァルトが交響曲第31番《パリ》を提供したことで知られる。1769年にゴセックが創設し、後にサン=ジョルジュが継承したコンセール・デザマトゥール(アマチュア演奏会)は、1781年にコンセール・ド・ラ・ロージュ・オランピクへ活動が引き継がれ、ハイドンがパリ交響曲(第82~87番)を提供したことで知られる。この2つの団体はオペラ以外の管弦楽曲を盛んに演奏していたが、どちらも革命の影響で解散してしまう。
王政復古の時代(1814~30)にコンセール・スピリチュアルは復活。だが19世紀のフランスでより大きな存在感を放ったのはパリ音楽院のオーケストラだ。当初は学生による練習が主目的であったが、1828年にコンサート協会が設立されてからは卒業生も演奏に加わった「パリ音楽院演奏会」が開催されるようになった。
ところが1870年までのプログラムを総ざらいしてみると、ドイツ・オーストリアの作曲家による作品が全体の75%を占めていたのだという〔詳細は、吉成順『〈クラシック〉と〈ポピュラー〉―公開演奏会と近代音楽文化の成立―』(アルテスパブリッシング、2014年)やウィリアム・ウェーバー、松田健訳『音楽テイストの大転換 ハイドンからブラームスまでの演奏会プログラム』(法政大学出版局、2016年)を参照〕。なかでもベートーヴェンの演奏頻度は全体の40%以上と群を抜いており、ドイツ語圏よりも頻繁にベートーヴェンの交響曲が演奏されていた。反対にプログラミングされることが極度に少なかったのが、存命中のフランス人作曲家の新作である。こうして本稿冒頭で『フランス音楽史』から引用した状況が生まれたのだった。
「無視」された作曲家たち
1828年のパリ音楽院演奏会で聴いたベートーヴェンの交響曲第3番《英雄》・第5番《運命》に衝撃を受けたエクトル・ベルリオーズ(1803~69)が、1830年4月に完成させたのが《幻想交響曲》である。これまでの音楽史では、ベルリオーズの前にベートーヴェン、後に続くのがリストやワーグナーと位置づけることで、フランス音楽においてはベルリオーズを孤高の存在のように扱うことが多かった。
だが実際はゴセックとベルリオーズのあいだに、エティエンヌ・ニコラ・メユール(1763~1817)やジョルジュ・オンスロー(1784~1853)が、ベルリオーズと同世代ではルイーズ・ファランク(1804~75)、アンリ・ルベル(1807~80)といったフランスの作曲家たちも交響曲を手掛けている。何ならベルリオーズとサン=サーンスのあいだにも、フェリシアン・ダヴィッド(1810~76)、テオドール・グヴィ(1819~98)、アドルフ・サムエル(1824~98)が交響曲を書いていた。このなかに2つの交響曲(と室内楽編成の小交響曲)を遺したシャルル・グノー(1818~93)も加えられるし、ヴァイオリン協奏曲でありながら交響曲と名付けられた《スペイン交響曲》で知られるエドゥアール・ラロ(1823~92)も、独奏楽器を伴わない交響曲を作曲している。
だが、それにもかかわらずなのである。サン=サーンスおよび、晩年に交響曲を遺したセザール・フランク(1822~90)や、エルネスト・ショーソン(1855~99)などフランクの弟子筋―つまりは「国民音楽協会」に深く携わった作曲家たち―以前による交響曲は、ベルリオーズという“例外”を除いて音楽史上で軽視もしくは無視されてきたのだ。
だが実際はゴセックとベルリオーズのあいだに、エティエンヌ・ニコラ・メユール(1763~1817)やジョルジュ・オンスロー(1784~1853)が、ベルリオーズと同世代ではルイーズ・ファランク(1804~75)、アンリ・ルベル(1807~80)といったフランスの作曲家たちも交響曲を手掛けている。何ならベルリオーズとサン=サーンスのあいだにも、フェリシアン・ダヴィッド(1810~76)、テオドール・グヴィ(1819~98)、アドルフ・サムエル(1824~98)が交響曲を書いていた。このなかに2つの交響曲(と室内楽編成の小交響曲)を遺したシャルル・グノー(1818~93)も加えられるし、ヴァイオリン協奏曲でありながら交響曲と名付けられた《スペイン交響曲》で知られるエドゥアール・ラロ(1823~92)も、独奏楽器を伴わない交響曲を作曲している。
だが、それにもかかわらずなのである。サン=サーンスおよび、晩年に交響曲を遺したセザール・フランク(1822~90)や、エルネスト・ショーソン(1855~99)などフランクの弟子筋―つまりは「国民音楽協会」に深く携わった作曲家たち―以前による交響曲は、ベルリオーズという“例外”を除いて音楽史上で軽視もしくは無視されてきたのだ。
「無視」の理由
その理由はいくつか考えられる。まずは、(その音楽史を執筆する時点で)「オーケストラのレパートリーとして残っている」作品が優遇されがちなこと。そしておそらく最も大きな要因となったのが、「20世紀の音楽へ至る系譜のなかに位置づけられたか」なのである。前述したようにベルリオーズはリストやワーグナーの先駆者とみなされ、その後継にはマーラーやシェーンベルクが続く。
リストやワーグナーから影響を受けているサン=サーンスの代表作といえば交響曲第3番《オルガン付》(1886)だが、この作品はフランクをはじめ、フランキスト(フランクの信奉者)たちにも影響や刺激を与えている。またサン=サーンスの弟子・友人のガブリエル・フォーレ(1845~1924)の門下からは、モーリス・ラヴェル(1875~1937)、フローラン・シュミット(1870~1958)、ジョルジェ・エネスク(1881~1955)、さらには20世紀最大の音楽教師と称されることになるナディア・ブーランジェ(1887~1979)が輩出されることになる。
リストやワーグナーから影響を受けているサン=サーンスの代表作といえば交響曲第3番《オルガン付》(1886)だが、この作品はフランクをはじめ、フランキスト(フランクの信奉者)たちにも影響や刺激を与えている。またサン=サーンスの弟子・友人のガブリエル・フォーレ(1845~1924)の門下からは、モーリス・ラヴェル(1875~1937)、フローラン・シュミット(1870~1958)、ジョルジェ・エネスク(1881~1955)、さらには20世紀最大の音楽教師と称されることになるナディア・ブーランジェ(1887~1979)が輩出されることになる。
交響曲はドイツのもの?
こうして18~19世紀を俯瞰し直してみると、最初の引用に含まれる「器楽曲はドイツの作曲家の領分」という当時の考え方自体が間違いであったように思われるかもしれない。だがこの価値観はそもそも、オペラより格下の地位にあった(交響曲を含む)器楽曲が、ドイツ人評論家ら〔E. T. A. ホフマン(1776~1822)など〕によってオペラと同等、もしくはそれ以上の芸術であると位置づけられていく過程のなかで生まれたものなのだ。
交響曲というジャンルの可能性を世界に広め、納得させたドイツ語圏の音楽家たちこそが正当なシンフォニスト(交響曲作家)とみなされた、と言い換えることもできるだろう。映画『アマデウス』(1984)のなかで、(18世紀の史実に基づき)モーツァルトは「オペラはイタリア語であるべきでドイツ語は野蛮だ」と非難されたが、19世紀フランスにおいては「交響曲はドイツのものでフランスの作品は未熟だ」という風潮が起こっていたといえるわけである。
そのことで未だにフランスの交響曲が顧みられないのだとしたら、実にもったいない話だ。
小室敬幸(作曲・音楽学)
交響曲というジャンルの可能性を世界に広め、納得させたドイツ語圏の音楽家たちこそが正当なシンフォニスト(交響曲作家)とみなされた、と言い換えることもできるだろう。映画『アマデウス』(1984)のなかで、(18世紀の史実に基づき)モーツァルトは「オペラはイタリア語であるべきでドイツ語は野蛮だ」と非難されたが、19世紀フランスにおいては「交響曲はドイツのものでフランスの作品は未熟だ」という風潮が起こっていたといえるわけである。
そのことで未だにフランスの交響曲が顧みられないのだとしたら、実にもったいない話だ。
小室敬幸(作曲・音楽学)

【CD】
ショーソン:交響曲、交響詩《ヴィヴィアーヌ》、他
ヤン・パスカル・トルトゥリエ指揮 BBCフィル
〈録音:1997年9月10~11日〉
[Chandos/CHAN9650]
*19世紀後半に書かれたフランスの交響曲といえば、サン=サーンスの第3番《オルガン付》とフランクのニ短調が飛び抜けて有名だが、ショーソンの変ロ長調も同格扱いすべき傑作だ。トルトゥリエとBBCフィルによる1997年の録音は、同曲における決定盤のひとつ。
ショーソン:交響曲、交響詩《ヴィヴィアーヌ》、他
ヤン・パスカル・トルトゥリエ指揮 BBCフィル
〈録音:1997年9月10~11日〉
[Chandos/CHAN9650]
*19世紀後半に書かれたフランスの交響曲といえば、サン=サーンスの第3番《オルガン付》とフランクのニ短調が飛び抜けて有名だが、ショーソンの変ロ長調も同格扱いすべき傑作だ。トルトゥリエとBBCフィルによる1997年の録音は、同曲における決定盤のひとつ。

【CD】
フローラン・シュミット:管弦楽とピアノのための協奏交響曲、夢想、夜
フセイン・セルメット(ピアノ)
デイヴィッド・ロバートソン指揮 モンテカルロ・フィル
〈録音:1993年〉
[Naïve/V4687]
*18世紀の協奏交響曲は原則として協奏曲の文脈に属するもので、一部の例外を除いて管弦楽の役割は控えめであることが多い。ところが20世紀の協奏交響曲は真逆で、通常の協奏曲よりも管弦楽が活躍したり、独奏楽器が管弦楽と(対比されるよりも)絡み合うことを目指したりしていることが多いのだ。フローラン・シュミットの作品は、その最たるものだ。
フセイン・セルメット(ピアノ)
デイヴィッド・ロバートソン指揮 モンテカルロ・フィル
〈録音:1993年〉
[Naïve/V4687]
*18世紀の協奏交響曲は原則として協奏曲の文脈に属するもので、一部の例外を除いて管弦楽の役割は控えめであることが多い。ところが20世紀の協奏交響曲は真逆で、通常の協奏曲よりも管弦楽が活躍したり、独奏楽器が管弦楽と(対比されるよりも)絡み合うことを目指したりしていることが多いのだ。フローラン・シュミットの作品は、その最たるものだ。