東京都交響楽団

スコアの深読み

第20回 

リゲティの生涯~「モダン」でも「ポストモダン」でもなく

 今回は特別編。曲目解説に収まらなかったジェルジ・リゲティ(1923~2006)の生涯を、作品を軸にして概観してみたい〔ちなみにリゲティの大おじには、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲の初演を断ったことで有名な大ヴァイオリニストのレオポルド・アウアー(1845~1930)がいたが、面識はなかったという〕。なおハンガリー語の人名表記は「姓名」順だが、本稿では「名姓」順で統一する。

幼少期の体験

 ブダペスト生まれのハンガリー系ユダヤ人の両親のもと、ルーマニアのトランシルヴァニア地方に位置するトゥルナヴェニ(ハンガリー語:ディチェーセントマールトン)で、リゲティは1923年5月28日に生を受けた。第一次世界大戦(1914~18)でオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊したため、1920年に結ばれた条約によってトランシルヴァニア地方全域がルーマニアに移譲されていたのだ。
 子ども時代の体験で、後の作品に反映されている体験をいくつか挙げておこう。ルーマニア語の存在を知らなかった幼いリゲティは、ルーマニア人警察が知らない言語で高圧的に喋る姿に驚いた。その体験が実質的なミニ・オペラ『アヴァンチュール』(1962)と『新アヴァンチュール』(1962~65)、そしてオペラ『ル・グラン・マカーブル(大いなる死神)』(1974~77/1996)から独立した《マカーブルの秘密》(1992)における人工言語(暗号)と絶叫を組み合わせた音楽に繋がっている。また3歳のころに伯父夫妻に預けられた際には、羊飼いたちが吹くアルプホルンから立ち昇る独特な倍音の響きに魅せられ、そのサウンドはオーケストラのための《メロディーエン》(1971)、ホルン三重奏曲(1982)、《ハンブルク協奏曲》(1998~99/2003)などに反映されている。
 6歳でトランシルヴァニア地方の中心地であるクルージ(ハンガリー語:コロジュヴァール)に転居。7歳ころからは年上の従姉妹(先ほどの叔父夫妻の娘)がオペラに連れて行ってくれるようになり、特にムソルグスキーの『ボリス・ゴドゥノフ』やヴェルディの『椿姫』が印象に残ったという。14歳からピアノを習いだし、さらには独学で作曲も始め、1941年にいよいよクルージ音楽院(現:ゲオルゲ・ディマ音楽院)に入学。1943年までハンガリーの作曲家フェレンツ・ファルカシュ(1905~2000)に師事した。ところがリゲティはユダヤ人であったため1944年から強制労働させられ、離れて暮らしていた弟と父は強制収容所で命を落としている。

バルトークや新ウィーン楽派の影響

 戦後の1945年9月からはブダペスト音楽院で引き続きファルカシュらに学び、1949年に卒業。折しも同じ年にソ連の影響下のもとハンガリー人民共和国という共産主義による独裁体制が成立したため、前衛的な音楽は発表できなくなってしまう。例えば今日ではバルトークとコダーイからの影響が濃厚な初期作に位置づけられる無伴奏チェロ・ソナタ(第1楽章は1948年、第2楽章は1953年作曲)さえも、第2楽章が「モダンすぎる」という理由で公に発表することができなかったのだ。
 その間もリゲティは自由な創作を続けていたが、表向きでは民族音楽の研究や母校の教師として食い扶持を得ていた。ソ連の独裁者スターリン(1878~1953)死去後、一時的に生じたいわゆる「雪解け」のタイミングで、バルトークの同編成作品とベルクの《抒情組曲》を先鋭化させたような弦楽四重奏曲第1番《夜の変容》(1953~54)などを発表。だが、より自由な環境を求めたリゲティは、1956年10~11月に起こったハンガリー動乱の後、12月にウィーンへ亡命(ただし市民権を得たのは1967年)。ウェーベルンの音楽に出会い、魅せられた後、シュトックハウゼンが2代目所長を務めていたケルン電子音楽スタジオへ向かう。

電子音楽とミクロポリフォニー

 リゲティはケルンで過ごしたおよそ2年の間に、音高だけでなく音の長さ、強さ、音色などを数字に置き換えて一元的に作曲しようとする「総音列主義」や、高価な機材を用いて音を録音・編集・加工していく「電子音楽」を学んだ(初代所長ヘルベルト・アイメルトが支給してくれた4ヵ月の奨学金が底をついてからもスタジオで働かせてもらえたが、ほぼ無給だったという)。しかし総音列主義には共感することができず、主に電子音楽を研究。その成果として生まれたのが架空の人工言語を題材にした電子音楽《アルティクラツィオン》(1958)や、電子音楽的な音響をオーケストラに移し替えた《アパラシオン》(1958~59)である。
 もうひとつ、電子音楽からの派生で重要となるのが、リゲティの出世作にして代表作《アトモスフェール》(1961)だ。この作品はもともと電子音楽として構想されたが、最終的にはシュトックハウゼンの3群のオーケストラのための《グルッペン》(1955~57)や4群のオーケストラと4群の合唱のための《カレ》(1959~60)、ペンデレツキの弦楽と打楽器、チェレスタ、ハープのための《アナクラシス》(1960)などからも影響を受け、オーケストラ曲として発表された。
 作曲者自身が「ミクロポリフォニー」と名付けた細密な対位法によって生み出される音響はトーンクラスター(ある音高から別の音高までのすべての音を同時に奏する房状の和音)と呼ばれるようになり、独唱と合唱、オーケストラのための《レクイエム》(1963~65)、無伴奏合唱のための《ルクス・エテルナ》(1966)、オーケストラのための《ロンターノ》(1967)といった傑作群へと発展。さらには同時代や後世の音楽にあまりに大きな影響を与えた。そして《アトモスフェール》《レクイエム》《ルクス・エテルナ》はスタンリー・キューブリックの映画『2001年宇宙の旅』(1968)に許可なく使われたが、リゲティの名が世界的に知られる大きなきっかけとなった。
 細やかな音をずらしたり、重ねたりすることで生み出される新しい音響という観点でいえばトーンクラスター以外に、100台のメトロノームによる《ポエーム・サンフォニーク》(1962)、チェンバロの2段鍵盤を活かした《コンティニューム》(1968)なども、ミクロポリフォニーというアイデアの延長線上で作られた作品といえる。またこれらをメカニカルな反復と捉えれば、ミニマル・ミュージックに接近してみせた2台ピアノのための3つの小品《記念碑・自画像・運動》(1976)や1985年以降に手がけられたピアノ練習曲集の一部の楽曲にも繋がっていく。

オペラ創作を経て、新たな領域へ

 1961年からスウェーデンのストックホルム音楽アカデミーで客員教授を務めていたリゲティは、1960年代半ばにストックホルム王立劇場からオペラの委嘱を受ける。劇場の監督を務めるヨーラン・イェンテレ(1917~72)が脚本・演出を担当して『オイディプス王』がオペラ化される予定であったが、イェンテレが1972年に事故で急逝したためプロジェクトが頓挫。その素材が転用されたのが合唱とオーケストラのための《時計と雲》(1972~73)とオーケストラ作品《サンフランシスコ・ポリフォニー》(1973~74)だ。そして改めて題材を変えてオペラ創作に挑んだことで生まれたのが『ル・グラン・マカーブル』(1974~77/1996)なのである。
 自らの音楽経験、そして人生経験をすべて反映させたかのような『ル・グラン・マカーブル』は紛れもなく、この時点でのリゲティの集大成といえる大作だが、折しも時代は必ずしも新しさを善としないポストモダンの時代へと突入してゆく。1979~81年に創作が停滞してしまうが、1982年に作曲したホルン三重奏曲で遂にリゲティは新たな領域へと足を踏み入れる。
 ミクロポリフォニーでは結果として生じる全体的な響きが大事であったのに対し、1982年以降のリゲティは複数の要素から生じる多層性が重要になった。そうすることで、協和音や旋法的な音階を用いながらも懐古的ではない音楽スタイルを生み出し、「モダン」でも「ポストモダン」でもない道を歩もうとしたのだ。このスタイルにたどり着くまでにリゲティが大きな影響を受けたのが、アジアや中南米やアフリカなど世界各地の民族音楽と、そしてまさにリゲティによって1980年に発見されてから世界的に有名になったコンロン・ナンカロウ(1912~97)と彼の自動演奏ピアノのための音楽であった。
 ナンカロウからの影響は、ピアノ練習曲集(第1巻 1985/第2巻 1988~94/第3巻 1995~2001)やピアノ協奏曲(1985~88)といったピアノ作品に直結。それまでとは異なる複雑なリズムを多層的に生み出すと同時に、ロマン派的な性格が強かった練習曲と協奏曲というジャンルに新たな可能性をもたらした。さらには半音よりも狭い微分音を積極的に取り入れたヴァイオリン協奏曲(1990~92)や、4つのナチュラル・ホルンを伴うホルン協奏曲《ハンブルク協奏曲》(1998~99/2003)へと発展的に派生。どちらかと言えば劇的な前者と、静的な後者は共に晩年のリゲティがたどり着いた到達点というべき作品だ。

小室敬幸(作曲・音楽学)
CD
【CD】
リゲティ:ヴァイオリン協奏曲、他

パトリツィア・コパチンスカヤ(ヴァイオリン)
ペーテル・エトヴェシュ指揮 アンサンブル・モデルン
〈録音:2012年7月〉
[Naïve/V5285(2枚組)]
* 中世風の「うた」や純正律の響き、複雑なポリリズムなどを現代的な技法で織り上げた難曲に、コパチンスカヤはシャープにしてしなやかな演奏で対応。共演のアンサンブルも自然体だ。リゲティのヴァイオリン協奏曲が既に20世紀の古典となったことを示す秀演。