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語り継ぐ都響|楽譜で読む都響の50年

インタビュー
渡邉暁雄さんの思い出

渡邉暁雄(わたなべ あけお)
第2代音楽監督・常任指揮者(在任1972年4月~78年3月)

第2代音楽監督・渡邉暁雄さんについて、都響創立50周年記念企画として、都響バストロンボーン奏者を42年にわたって務めた井上順平さんに当時のお話を伺いました。

 井上さんの入団は1971年。都響は結成6年目、初代音楽監督を務めた森正さんの任期が終了する年だった。
「都響は他の楽団から引き抜きをせず、新卒者を中心にオーディションをして創設されましたから、当時の楽員の平均年齢は27〜28歳。ベテランの方も数人いらっしゃる、という構成でした。
 森正さんの練習は緻密で、ギュウギュウに絞られた(笑)。『トリスタンとイゾルデ』の「前奏曲と愛の死」で、“トロンボーンだけお願いします”と言われ、“もっとピアノ!”と(金管楽器にとって難しい)弱音を要求されて大変だった記憶があります。アインザッツ(演奏開始の瞬間)にも厳しかった。都響がメジャー・オーケストラにステップアップするための基礎トレーニングの時期でもあり、森さんには一番大事な作業をしていただいたと思います。同時に、都響は急速に成長していて、楽員数も増えてきましたし、次の段階へ進もうという機運が高まっていた。そういう時期にお迎えしたのが渡邉暁雄さんでした」

井上順平 写真

©野口賢一郎

井上順平(いのうえ・じゅんぺい)
1971年武蔵野音楽大学卒業。同年東京都交響楽団へ入団、2013年まで42年間バストロンボーン奏者を務める。75年文化庁在外研修員としてドイツのデトモルト音楽大学へ留学。武蔵野音楽大学特任准教授、沖縄県立芸術大学講師。大編成のトロンボーン・アンサンブル「ムジカ・ムンダーナ」主宰。日本トロンボーン協会会長。アルバム『アイ・ミス・ユー・ソー』(What'sNew Records)を2013年12月にリリース。

シベリウス:クレルヴォ交響曲 写真

シベリウス:クレルヴォ交響曲

第2代音楽監督に就任

 渡邉暁雄さんの都響初登壇は1971年6月。都響にとって初演奏(以下、「都響初演」と表記)となった《ペトルーシュカ》だった。翌年、渡邉さんは都響の第2代音楽監督(常任指揮者を兼任)に就任する。
 「リハーサルの初日から、颯爽とした姿にびっくりしました。スラリとした長身で、甘いマスク、物腰がすごく柔らかい。本当に紳士で、いつも笑顔。渡邉さんがにこやかに入ってくると、それだけで練習場の空気がふわりと変わる。その印象は強烈でした。威圧するような雰囲気が全くなくて、オーケストラから温かい音色を引き出す。
 バランスもあまり細かいことは言わず、全体的な音楽の流れを大事にされていました。もちろん大雑把ではなく、ご自身の中に凛とした軸がある。棒もすごく綺麗でゆるやか、それでいて打点が明晰で見やすい。左手を抱えるようにして、ちょっと前かがみになって振る指揮姿がとにかく格好良かった」

シベリウス

井上順平 写真

井上順平

 就任披露となった1972年4月の定期演奏会でシベリウスの交響曲第1番を演奏。シベリウス作品はその後、第2番(73年4月)、第5番(74年7月)、《クレルヴォ交響曲》(74年10月& 78年3月)、第7番(75年12月)、第3番(77年1月)を採り上げ、第2番以外は都響初演、74年の《クレルヴォ》は日本初演だった。
 「渡邉暁雄=シベリウス、というイメージがあるくらい、得意中の得意レパートリー。シベリウスの音楽がもつ特別な抒情性、哀調、悲しみを帯びた旋律、そういうものを自然に表現できた方でした。渡邉さんはお父様が日本、お母様がフィンランドの方でしたから、そういう生まれ育ち、国民性は大きかった気がします」
 1977年、都響は初の海外ツアー「ソ連・東欧演奏旅行」を行った。9月24日~ 11月1日の40日間、ポーランド、ソ連、東ドイツ、ユーゴスラヴィア(国名は当時)など計8ヶ国、21都市23公演(渡邉暁雄指揮/2公演のみ小林研一郎指揮)。その中にヘルシンキ(フィンランド)での演奏が1公演だけ含まれていた。
 「北極圏に近い厳しい自然、広々とした大地と清涼な空気がとても新鮮で。ヘルシンキでは、お母様の親戚の方が演奏会にいらして、渡邉さんはフィンランド語でお話をされていて、シベリウスの音楽の背景が本当に身体に入っている方だな、と改めて感じました」

マーラー

 シベリウス以外にも、渡邉暁雄さんは都響にとって初めてとなるレパートリーを果敢に演奏していった。バルトークの《管弦楽のための協奏曲》(72年6月)、ブルックナーの交響曲第4番《ロマンティック》(72年9月)、ラヴェルのオペラ『子供と魔法』(72年12月/演奏会形式)、ストラヴィンスキーの《春の祭典》(73年2月)、プロコフィエフの交響曲第5番(74年5月)、ニールセンの交響曲第4番《不滅》(76年3月)など、主なものだけで20曲以上。
 マーラーも集中的に採り上げ、交響曲第4番(73年7月)、第5番(73年12月)、第6番《悲劇的》(77年12月)、第7番(74年12月)、第10番(クック版全曲)(76年12月/日本初演)を都響初演。再演を含めると《大地の歌》(75年12月)、第1番《巨人》(76年10月)、第5番(77年3月)も演奏している。
 「当時の日本では、マーラーはあまり演奏されていませんでしたから、画期的なことだったと思います。この時期が、都響の大曲への取り組みの幕開けでした。オーケストラとしてやらなければならないレパートリーをどんどん採り上げ、メンバーもそれを貪欲に吸収していった。
 マーラーの演奏は若杉弘さん(都響第3代音楽監督/在任1986年4月~ 95年3月)が始めたというイメージがありますが、実は渡邉暁雄さんが先駆者だった。この時の経験があったからこそ、若杉さんが都響と行った“マーラー・シリーズ”(1988 ~ 91年)の充実を達成できた気がします」

ラヴェル:オペラ『子供と魔法』写真

ラヴェル:オペラ『子供と魔法』

ラドゥ・ルプーと共演写真

ラドゥ・ルプーと共演

ソリスト

 渡邉暁雄さん時代には、有名ソリストも数多く登場。フィリップ・アントルモン(ピアノ/ 73年5月)、ラドゥ・ルプー(ピアノ/ 73年10月& 76年3月)、レオン・シュピーラー(ヴァイオリン/ 76年3月)らが舞台に上がっている。
 「ソリストの招聘は、音楽監督だけではなく事務局の功績もあったと思いますが、それでも渡邉さんの顔の広さは大きかったでしょうね。このようなソリストとの共演も、オーケストラにはとても刺激的でした。なかでもルプーは、良いキャラクターのピアニストだな、と記憶に残っています。東欧演奏旅行に同行した内田光子さんも印象が強いですね」

渡邉暁雄さんが都響に遺したもの

 「森正さんのトレーニングを基礎に、ある意味でオーケストラを解き放って、音楽のもつ自由さを引き出してくれた方でした。渡邉暁雄さん自身が50代(都響在任時52 ~ 58歳)で、指揮者として脂がのってきて円熟にさしかかる時期を迎え、意欲的に都響と向き合ってくださった。都響も成長期で、自分たちはまだまだ伸びるぞという雰囲気がみなぎっていた。互いにそのタイミングで出会うことができたのは、天の配剤だったのかなという気がします」

(取材・文/友部衆樹 月刊都響2015年5月号より転載)